タマムシ2016年06月20日

 
職場近くのアスファルト道路にタマムシがいました。埼玉県和光市です。近くに、米軍基地や樹林公園などがあるので、環境が良いのかもしれない。

福島原発事故から5年2016年06月14日

 
 浪江町は放射線が低いところもあるのに、町のほとんどが一般立ち入り禁止となっていたため、復興は手付かずだった。もう少し立ち入り規制を緩和して復興を加速化したほうが良いように思っていたが、補助金の関係もあったのだろう。
 原発事故から5年たった2016年4月1日から、浪江町の立ち入り規制が緩和された。
 
 浪江町請戸地区の空間放射線量は0.059μGy/hを示していた。事故前と同じ。それなのに、これまで立ち入りが原則禁止されていたため、まったく復興がなされておらず、津波被害の建物がそのまま放置されている。(写真)
 
 浪江町請戸地区のほか、原発被災地のいくつかの写真を以下に掲載しました。
 http://cccpcamera.photo-web.cc/GENPATSU/FUKUSHIMAA/index.htm

個人番号カード2016年06月13日

 先日、東海原研に入門した時、身分証明書の提示を求められたので、個人番号カードを見せたら、守衛さんに初めてみたと言われた。交付は、まだあまり進んでいないのだろう。
 原子力関係施設に入る時は、公式身分証明書の提示が求められる。日本人の場合、公式身分証明書として認められるのは「運転免許証」「パスポート」「写真入り住基カード」「個人番号カード」。

せんべいがうまい2016年06月08日

 
甘い煎餅、油の煎餅、ピリ辛味の煎餅、アミノ酸調味料がきつい煎餅、ふわふわ煎餅・・・みんな嫌いです。
普通の煎餅が食べたいのに、めったに売っていない。
 
先日、根津に行ったら、おばあさんが手焼きしていた煎餅屋がありました。ここの煎餅はうまい。昔ながらの店として有名らしい。10枚で1200円ぐらいだったかな。

本の紹介-北夷の海2016年06月07日

 
乾浩/著 『北夷の海』 新人物往来社 (2002/01)
 
 本書には「北夷の海」「東韃靼の海路」「遥かな氷雪の島」が収められている。
 松田伝十郎と間宮林蔵は樺太探検をおこない、樺太が島であることを確認した。「北夷の海」「東韃靼の海路」は、このときの探検を扱った歴史小説。「遥かな氷雪の島」は近藤重蔵を主人公とした択捉島探検物語。

本の紹介―サハリン 残留2016年06月06日

 
玄武岩・他/著 『サハリン 残留』 高文研 (2016/4)
 
 戦前日本領だった南樺太は敗戦によってソ連・ロシアの領土となった。南樺太に居住していた日本人の多くは帰国したが、そのまま残量した人も多い。
 本書では、サハリンに残留した日本人・朝鮮人10家族を取り上げて、どのように生きて来たのかを記している。
 
 個人の問題を詳しく追うことによって、それぞれの事情は分かるのだけれど、サハリン残留問題の全体像が、はっきりわかるというものでもないように思う。

本の紹介―日露戦争の裏側2016年06月05日


大熊秀治/著 『日露戦争の裏側“第二の開国” 日本列島に上陸したロシア軍捕虜七万人』 彩流社 (2011/02)

日露戦争では、多数のロシア兵捕虜が日本各地に抑留された。松山が有名だけれど、捕虜の数が多かったこともあり、収容地位は全国各地に広がっていた。本書で取り上げられている収容値は、松山のほかには、丸亀、善通寺、姫路、福山、名古屋、静岡、豊橋、堺浜寺、大阪、大津、京都、福岡、小倉、山口、久留米、熊本、金沢、敦賀、鯖江、高崎、習志野、佐倉、弘前、仙台、秋田、山形があげられる。

 日露戦争のロシア人不慮の扱いは、国際法にのっとった人道的なものだったといわれることがある。
 この原因の第一に、日清戦争の反省がある。
 十年前の日清戦争の旅順攻略の際、「虐殺事件」を起こし、国際的な非難を浴びたことだ。もちろん、日本軍にも言い分が・・・ある。
 だが、民衆を巻き込んだ殺裁になったこと、捕虜として生命を保護する意識が薄かったことは事実で、後軍していた欧米の記者の報道により、大々的なスキャンダルになった。収拾に苦労した政府が、その二の舞はぜひとも避けたいと考えたと推測できる。
 さらに重要なことは、軍事費の捻出に外債を当てにしていたことだ。結局、五回にわたり計桶億七〇〇万ポンド(一〇億四二〇〇万円)を調達できたが、欧米諸国の世論次第でどうなるか分かったものではなかった。政府は「野蛮に対抗するに文明を以てする」と内外に宣言し、人道主義路線を明確にした。その上で、海外に特使を派遣し、日本への理解を訴え続けたのである。(P19)

 捕虜は、松山をはじめ将校が多かったところで、特に優遇されていた。これは、ロシア兵の将校には貴族が多く、金目当ての売春業が盛んだったことがあげられる。本書では、当時の新聞記事を引用して、次のように記している。
 又しても俘虜の大浮かれ
『新愛知』(五月十一日付け)
 西別院に収容せられ居る将校八名は門前町料理店万梅に至り、芸者七名を招き飲めや唄えの底ぬけ騒ぎを為し、同楼を出て腕車(註:人力車)をつらねて名古屋ホテルに乗り込み、さらに前津の香雪権に赴きまたもやこけの限りを尽くし、又一方に於いて女郎買い熱心の将校あり、二名打ち揃い宮田楼に登楼し(略)
「新愛知』(五月二十二日付け)
 旭遊郭に投入した金は約千円なるが、その八割を吸い取ったのは宮田楼。しかし困ったことは俘虜に買われた女郎の名が新聞に出て、深いなじみの客が愛想を尽かし二度と足踏みせず、楼主は大弱り、何とか新聞に出ぬ様にしたいと苦心(略) 
(P88,P89)
 日露戦争前は、日本ではロシア兵相手の売春が盛んだったので、ロシア兵が捕虜で来ると知った売春関係者は、一攫千金のチャンスとばかり、張り切ったのだろう。次のような日本人妻の記述もあり、興味が持てる。
  そのほか、日本人妻が収容所に現れたこともある。当時の『愛媛新報』によると、公会堂収容のエッカー一等大尉の妻おタキ(二九歳)で、長崎から訪れたという。しばらく滞在していたが、健康がすぐれぬために、三月中に引き上げたようだ。長崎は戦前、ロシア東洋艦隊の避寒地となり、ロシア人村が出来ていた時代もあっただけに、そうした家族があっても不思議ではない。(P55)

ロシア人墓地2016年06月04日

 
日露戦争の時、捕虜になったロシア人の墓地は松山が有名だけれど、松山以外にも全国各地にある。
群馬県高崎市竜広寺には3人のロシア兵の墓地がある。ここは、陸軍病院が近かったためだろう。場所は、高崎観音に行く途中の聖石橋の手前(高崎市街側)で、高崎公園の南側に当たる。お寺の入り口に案内看板があってわかりやすい。

回向院2016年05月30日

大黒屋光太夫:
 大黒屋光太夫は伊勢白子の船頭。1782年、江戸に向かう船が、嵐でアリューシャン列島に流され、その後、シベリアを横断しサンクトペテルブルグに赴き、エカテリーナに謁見し、9年後に根室に帰還した。東京都墨田区両国の回向院には、帆掛け船の形をした海難供養碑が建てられている。1789年に三河平坂の施主により建てられたもので、裏面に光太夫の名前が刻まれている。
  
  
鼠小僧:
 回向院には鼠小僧の墓があり、参拝者が絶えない。
  


染井霊園2016年05月29日

 
 東京巣鴨の染井霊園にある松浦武四郎の墓参をしました。場所は、霊園管理事務所前の看板に書かれています。
 石塔の3面に松浦武四郎の伝記が漢文でびっしり書かれている。石塔背面が蝦夷地探検の話なのだけど、植栽がじゃまで一部読めない。
 松浦武四郎の墓の反対側に、ロシア正教徒と思われる人の墓がありました。
 
 それから、染井霊園にはコロボックル説の坪井正五郎の墓もあります。

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