本-沖縄戦国時代の謎2016年09月28日

   
比嘉朝進/著 『沖縄戦国時代の謎 南山中山北山久米島宮古八重山』那覇出版社 (2006/4)
   
 本のタイトルから見て、琉球のグスク時代から三山時代の歴史が書かれているのかと思ったら、そうではなくて、琉球の城跡がどのようなものだったのかを、主に伝承に基ずいて解説している。三山から第一尚氏時代の話が多い。

コンクリートブロック積 車庫の撤去2016年09月25日

  
コンクリートブロック積、木造屋根、ブリキ板葺の車庫を撤去した。
  
①軽量電動シャッターを撤去する
②屋根のブリキ板を外す。これは釘止めなので、屋根に上って釘を全部抜く。
 以下の作業の邪魔になるので、雨樋を外す。これは手で簡単に外せる。
③小屋の内側から上向きにたたいて、野地板(ブリキの下にある木の板)を外す。
④小屋の外側から、垂木(斜めの角材)を軒桁(ブロックに乗っている太い角材)付近で切断。
⑤垂木が棟木(屋根の一番高いところにある太い角材)に付いているので、下から引っ張って外す。
  下の写真は、屋根の左半分の垂木を4本残して取り除いたところ。
  
⑥小屋の右側は隣地に隣接しているので、野地板を外したあと、小屋の内側から、垂木を棟木付近で切断したあと、引っ張って外した。
⑦棟木にロープをかけて引き倒す。小屋束(棟木を縦に支えている角材)も一緒に外れた。
⑧梁を下からハンマーでたたいてはずす。梁は軒桁に木組みで付けられていた。
⑨軒桁はブロック塀にボルトでつけられていて、ナットがさび付いて取れないので、グラインダーでカットした。
 下の写真は、屋根を撤去したところ。
  
⑩廃材は軽トラを借りて、近くの産廃処分場へ。軽トラ2杯で1500円で引き取ってもらった。本当はもう少し高いはずだが、近所ということでおまけ。
 トタン板と軽量電動シャッターは廃品回収業者へ。こちらは無料。
 
 このあと、コンクリートブロック塀を撤去する。

電動軽量シャッターの撤去2016年09月19日

実家のコンクリートブロック製の車庫に付いていた電動軽量シャッターを撤去した。廃棄するので、雑な撤去。シャッターは重量があり素人には危険なので、業者に任せたほうがいいとの見解もあるが、慎重に作業すれば大丈夫。

  
①シャッターを下した状態から上げるのに要する時間を測定。27秒。
②ガイドレールを外す。
 左右とも、ねじの錆付きがあって外れない。仕方ないので、グラインダーでガイドレイルを中央から切断。そうしたら、簡単に外れた。はずすのは片方だけで、まあいいか。
③シャッターを下ろす。ガイドレールがないので、スラット(シャッターの鎧戸のこと)が、ぷらぷらになった。
④スラットは一枚づつ横にスライドして外すのだけれど、どうもうまくゆかない。困った。手動シャッターと違って、シャッターが勝手に動くこともないので、思い切って、グラインダーで横に切断。スラットはずしは危険が伴うので、本当は切断などしないほうが良いのだけれど。
⑤スラットがなくなったので、27秒間シャッターを巻き上げるように電動スイッチ操作。要するに27秒空回りさせる。
  バネのテンションを開放するために必要な操作。これをしないと、危険。
⑥この後はモーター操作はないので、安全のため、電気ケーブルを切断。
⑦シャッターユニットのカバーを外す。下の写真。
  
⑧でっかいバネが渦を巻いている。空回りさせて巻き上げたので、それほどテンションはかかっていない。でも、安全のため、グラインダーでばねを切断。バネは数回転した。
⑨このあと、重い中心棒を外すのだけれど、空間が狭くてナットが回せない。そこで、減って小さくなった切断砥石をグラインダーに付て、ナットを切断した。
⑩あとは、普通に持ち上げればよいかと思ったら、配線が引っかかっている。ペンチで切断して、外した。
⑪残りの部分は、木の梁に太い木ねじで止めてあったので、それを外して完了。

  
2時間近くかかってしまった。一番時間がかかったのは、どうすればよいのか、考えていた時間。
このあと、軽トラックで廃品回収屋にもって行く。
  
使用工具:ディスクグラインダー(切断砥石)、ドラーバードリル、自在スパナ、ペンチ

本の紹介-宮古島民台湾遭難事件2016年09月13日

 
宮国文雄/著『宮古島民台湾遭難事件』那覇出版社 (1998/05)
 
 明治4年、那覇を出港した宮古・八重山の船4隻は強風のため遭難した。このうち1隻は宮古に帰還したものの、1隻は行方不明、1隻は台湾西部に漂着、1隻は台湾南東部に漂着した。台湾西部に漂着した船は、現地の中国人に救助されたが、南東部に漂着した1隻の船の乗組員のうち多数が、現住民により殺害された。
 
 南東部に漂着した1隻の船には、69名の乗組員があったが、上陸時に3人が死亡し、54人がパイワン族により殺害され、12人は中国人により救助された。救助された12人は福建省経由で那覇に戻った。殺害は斬首で、首はパイワン族により持ち去られ、胴体は中国人によって現地に葬られた。
 
 この事件をきっかけに、日本は明治7年に台湾出兵を行う。出兵した日本軍は、殺された宮古八重山の人たちの首を持ち帰り、那覇に葬った。宮古や八重山の人が多かったはずなのに、那覇に葬られたのはなぜだろう。那覇の墓は波の上宮にある台湾遭害者之墓だが、元々の場所から若干移されているらしい。現在の場所は、小桜の塔の向かい、ペッテルハイム博士居住跡の隣。
 遭難から台湾出兵にいたる一連の事件を「牡丹社事件」という。
 
 本書第1章は遭難と54人が殺害され12人が帰還したいきさつの説明。ちょっと歴史物語風で、どこが史実でどこが想像なのか区別がつかないところがある。
 第2章は台湾出兵の説明。
 第3章から第6章は遭難者の墓と墓参の模様。胴体が埋葬された台湾南東部と、首が埋葬された那覇に墓地がある。

本‐日本古地図コレクション2016年09月11日

 
三好唯義・他/著『図説 日本古地図コレクション』河出書房新社 新装版 (2014/6)
 
 江戸時代末期までの日本地図の変遷を説明した本。古地図のカラー図版が多く、日本地図の変遷が視覚的にもよくわかる。しかし、図版が小さいので詳しいところはわからない。

本‐ここまで変わった 日本史教科書2016年09月10日

 
高橋秀樹・他/著『ここまで変わった日本史教科書』吉川弘文館 (2016/8)
 
 初等中等局の教科書調査官3人による執筆。
 日本史教科書がどのように変わったのかを、古代から現代にいたるまで、各項目2ページから4ページ程度で説明している。各項目は独立しているので、興味のある所だけを読んでもよい。
 「なるほど、こう変わっているのか」と、それなりに興味は持てるのだけれど、読んでいて、なんとなく面白くなかった。
 
 少年の時、歴史教科書が面白くなくて、まったく興味が持てなかった。この本は、それほどつまらなくはないが。教科書調査官という人たちは、歴史をつまらなく書く専門家なのだろうか。

尖閣は日本固有の領土ではない2016年09月04日

 
 尖閣は日本固有の領土だろうか。「固有の領土」は日本政府の言うことを信じ込むために使われているだけの用語なので、何をもって「固有の領土」なのか、そんなことは、どうでもよいことである。
 現在、日本政府は「固有の領土」とは一度も外国の領土となったことがない日本の領土、としているようだ。
 
 では、尖閣は日本固有の領土だろうか。
 
 1945年、日本の敗戦により沖縄はアメリカ統治になった。沖縄が外国だったのだから、尖閣も外国だ。一時、外国だった尖閣が、日本政府の説明による「日本の固有の領土」でないことは明らかだろう。
 「沖縄は占領統治になっただけで外国になったわけではない」こんな屁理屈をいう人もいるかもしれない。
 写真は、1953年に那覇から日本に宛てられた年賀はがき。沖縄から見たら、日本は外国だったので「外国年賀」のスタンプが押されている。日本から沖縄宛ての年賀はがきも、同様に「外国年賀」と書かれた。1952年に沖縄と日本の間で、年賀郵便の取り扱いが始まった時から1956年まで「外国年賀」とされ、それ以降は「特別年賀」の名称に変えられた。日本政府が公式に「外国」としていたのに、領土主張の根拠のために歴史を変造するのは良くない。

本‐南シナ海でなにが起きているのか2016年09月03日

 
山本秀也/著 『南シナ海でなにが起きているのか 米中対立とアジア・日本』 (2016/8)岩波ブックレット
 
著者は産経新聞論説委員。本書の内容には、ごく普通に言われている以上の情報はなくて、特に興味は持てなかったけれど、読んだことを忘れないように書いておきます。
 
産経新聞論説委員らしい、以下の記述には苦笑した。
『ここで筆者から質問です。発想を大転換して、九段線で囲まれた中国の南シナ海支配を受容することはできないでしょうか。中国の「主権」を認めた上で、南シナ海で通航の安全を確保し、中国が主導する資源の共同開発にも日本が積極的に参加するという想定です。(P67)』
 南シナ海での問題は、中国を含めた周辺各国の問題であって、日本は紛争当事者ではない。このため、日本が一国に加担しないのは当然のことで、同時に、フィリピンの主張にも加担すべきではない。『中国と対立しないのならば、中国の言うことを全部聞くのか!』と言っているようで、これでは、右翼新聞の論説そのものだ。

本-シベリア最深紀行2016年09月02日

 
中村逸郎/著 『シベリア最深紀行―知られざる大地への七つの旅』岩波書店 (2016/2)
 
 ロシア政治が専門の中村逸郎教授によろシベリア案内。
 シベリアに住む人々を取材したものだが、シベリアの一般像を描いているのではなくて、世捨て人のようなかなり変わった人を対象としている。でも、ある程度の広い地域の偏狭で、変わった人たちを探せば、どの地域でも、相当に変わった人がいるのではないだろうか。
 もっとも、変わった人が生きてゆけるのは、一言で言えば、シベリアの奥深さなのだろう。

本の紹介 - 石碑と銅像で読む近代日本の戦争2016年08月28日

 
歴史教育者協議会/編『石碑と銅像で読む近代日本の戦争』 高文研 (2007/12)
 
明治以降の戦争関連の記念碑がいろいろと紹介されている。こういったものに関心がある人には旅行の参考になるだろう。
紹介されている記念碑は、北海道から沖縄まで、また、一部海外に及ぶ。
このうちのいくつかは、私も訪ね、このBlogで紹介したものもある。
 
P27にシベリア出兵関連として、靖国神社の「田中支隊忠魂碑」が紹介されている。靖国神社には何回も行っているが、この日は見た記憶がないので、今度行くついでに見学しようと思う。
 
P36には、長野県埴科郡坂城町立南条小学校内の中島仲重慰霊碑が紹介されている。この人は、御真影を抱えて焼死した校長で、戦前の帝国教育に盛んに利用された。今の感覚では、写真と人命を比べて、写真を大切にする恐ろしい人命軽視思想だった。
 
P61には、京都大江山「道の駅シルクまちかや」の大江山ニッケル鉱山日本中国悠久平和友好之碑が紹介されている。戦前、ここでは連合軍捕虜700人、強制連行中国人200人、強制連行朝鮮人150人が働かされていた。
 
 強制連行された中国人や朝鮮人の慰霊碑は各地にあるが、太平洋戦争連合軍捕虜の慰霊碑は多くない。P63には上越市平和記念公園にある直江津俘虜収容所跡の碑が紹介されている。ここでは、オーストラリア兵捕虜300名のうち60名が死亡している。
 
 P62で紹介されている北茨木市大津長浜海岸の『風船爆弾放流跡地 わすれじ平和の碑』は機会があったら是非訪れてみたい。

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