運慶2017年10月03日

 
     
東京国立博物館で開催されている運慶展を見ました。
      
開館時間に行ったら人人人。たいした人数ではない。入場まで10分ぐらい並んで待ったかな。
会場は混んでいたけれど、たいしたことはなかった。
     
世親菩薩立像、無著菩薩立像、八大童子立像のうち六像などが目玉。
     
見落とせないのが、真如苑がオークションで落札した大日如来座像。思ったより小さい像で、本当に運慶作か確定しているわけではないけれど、整った顔は作者の技量の高さを感じます。



本―満州開拓団の真実2017年10月01日

    
小林 弘忠/著『満州開拓団の真実』七つ森書館 (2017/8)
    
 長野県高社郷出身の500人にのぼる集団自決の原因と経緯を解明したもの。太平洋戦争末期、ソ連が対日参戦すると、現地日本軍は開拓団民に対して退去するように命令した。しかし、高社郷出身者の開拓団では集団自殺することを決め、退去しなかった。このため、日本軍は再び退去を命令したため、命令に従って退去をしたが、逃げ遅れ、日本軍と合流することができなかった。その後、各地をさまよい、最終的に、多くの自殺者を出した。
 本書は「もっと早く知らせていたら自殺者を出さなかった」との見解のようであるが、最初の命令を無視して、集団自殺を選んだのだから、集団自殺の主因は開拓団員らにあるような気がする。
    
 満州開拓団は、開拓団とは名ばかりで、現地人の土地の略奪者だったので、現地住民の怒りを買っていた。このため、日本軍がいなくなれば仕返しをされるのは明白なことだった。
    
 そういうわけで、本書の内容には、あまり興味を持てなかった。

本―日本陸軍の対ソ謀略2017年09月30日

      
田嶋信雄/著『日本陸軍の対ソ謀略:日独防共協定とユーラシア政策』吉川弘文館 (2017/2)
  
非常に専門性の高い内容で、正直言ってあまり興味がなかったのだけれど、読んだことを忘れないようにタイトルだけ買い留めておきます。内容は、戦前の日独防共協定締結への歴史の解明。

本の紹介―沖縄の戦争遺跡2017年08月09日

 
吉浜忍/著『沖縄の戦争遺跡: 〈記憶〉を未来につなげる』 吉川弘文館 (2017/6)
 
 地上戦が行われた沖縄には、多数の戦争遺跡が残るが、そのうちの主要な戦争遺跡や記念碑などについて、写真も使って、1か所あたり数ページで説明している。戦跡で一番多いのは「ガマ(洞窟)」であり、これらは、住民の避難、軍人の避難、作戦司令などの軍施設、野戦病院などに使われたものである。本書では、これらのガマで、何が起こったのか詳しい解説がなされている。沖縄戦の実態を知るうえで、さらに、沖縄戦の戦争遺跡を見学するうえで、好適な参考書だ。
 ただし、ガマや記念碑の場所の詳細が書かれていないので、この本だけで訪ねようとすると場所がわからないことも多いだろう。
   
 沖縄にある記念碑には戦争を賛美し英霊を顕彰するものも少なくないが、これらについての記述は少ない。このため、本書は、沖縄戦の実態を住民の側から明らかにすることに主眼が置かれていると言えるだろう。

 以前、沖縄旅行した時、チビチリガマ、司令部壕、南風原病院壕などを見学した。シムクガマはハブが出そうで怖かったのでやめた。
 今度沖縄に行くときは、アブチラガマ、カーブヤーガマを見学したい。

本の紹介―樺太に生きたロシア人2017年07月28日

     
セルゲイ・P.フェドルチューク/著、板橋政樹/訳『樺太に生きたロシア人 故郷と国家のはざまで…』 日本ユーラシア協会北海道連合会「サハリン研究会」 (2004/05)
      
 日露戦争・ポーツマス条約で南樺太が日本へ割譲されると、ロシア人の多くは本国へ帰国した。しかし、数百人のロシア人は帰国することなく南樺太にとどまった。また逆に、ポーツマス条約後に、南樺太に移住したロシア人も存在する。当時、ポーランドはロシアの領土だったため、残留ロシア人の中にはその後ポーランド国籍を得たものも存在する。
 本書は南樺太残留ロシア人(ポーランド人などを含む)の13家族を対象に、彼らがなぜ留まったか、日本領時代をどのように生きたか、第二次大戦後どのように生きたか、このような点を詳述する。
 南樺太残留ロシア人について、ほとんど知られていないので、この問題に関心がある人には有用な著書だ。

本の紹介-日米開戦へのスパイ 東條英機とゾルゲ事件2017年07月26日

      
孫崎享/著『日米開戦へのスパイ 東條英機とゾルゲ事件』祥伝社 (2017/7)
    
 太平洋戦争勃発前の1941年9月から、ドイツ人記者・リヒャルト=ゾルゲ、近衛内閣ブレーン・尾崎秀実らがスパイの疑いで逮捕され、死刑になった。いわゆるゾルゲ事件である。ゾルゲの報告で、日本にはソ連侵攻の意思がないことを知ったスターリンは全兵力をドイツ戦線に振り向けることができたなどと、言われることが多い。
 本書では、このような俗説を検証し、ゾルゲからの情報はソ連にとって重要なものではなかったことを明らかにする。そして、ゾルゲ事件は、東條が近衛内閣を退陣させて権力を奪取するために利用されたものであり、さらに、戦後には反ソ宣伝に利用された事件だったことを明らかにしている。
 ゾルゲ事件は、歴史上有名な事件であるが、スパイは秘密が多いので明らかでないことも多く、事件の解明自体に謀略が含まれることがある。本書は、多数の文献を精査することにより、事件の全貌を解明している。ただし、事実の解明に主眼が置かれた研究書であるため、歴史に詳しくない人や、結論だけが欲しい人には、読むのが大変だろう。

本-サハリン南部の遺跡、サハリン南部の考古資料2017年07月22日

      
新岡武彦、宇田川洋/著 『サハリン南部の遺跡』北海道出版企画センター (1990/10)
     
宇田川洋/著『サハリン南部の考古資料』北海道出版企画センター (1992/12)
     
どちらの本も、樺太南部にある個々の遺跡の解説。この地域の古代史解説ではない。
『サハリン南部の遺跡』は358か所の遺跡それぞれの場所、発見、沿革などのデータを示している。
『サハリン南部の考古資料』はこれらの遺跡出土品の写真とその解説。

本の紹介―ラングスドルフ日本紀行2017年07月20日

   
ゲオルク・ハインリヒ・フォン ラングスドルフ/著、山本秀峰/訳『ラングスドルフ日本紀行 クルーゼンシュテルン世界周航・レザーノフ遣日使節随行記 』露蘭堂(2016/08)
  
 幕末の1804年、レザーノフを隊長とする使節団が長崎に来航し、通商を求めた。この時、幕府は、レザーノフ一行を半年間、幽閉状態に置いた末、通商を拒否した。この時の航海や長崎滞在について、以下の書籍が出版されている。
 クルウゼンシュテルン/著、羽仁五郎/訳 『クルウゼンシュテルン日本紀行』 (駿南社) 昭和6年(復刻版が雄松堂書店より出版)
 レザーノフ/著、大島幹雄/訳『日本滞在日記―1804‐1805』(岩波文庫)
  
 ラングスドルフは医師・自然科学者として、この航海に同行した。本書は、ラングスドルフによる日本やアイヌの観察記。長崎の滞在は6か月の長きにわたったが、ほとんど幽閉状態だったため、日本の風俗や自然に対する記述は限られていて残念だ。日本で通商を拒否されたレザーノフ一行はその後、北海道・樺太に立ち寄った。アイヌとは自由に交流したため、アイヌの習俗の記述がある。
 一行のうち、フォボストフらはレザーノフと別れて、1806年10月22日、樺太を襲撃、アイヌたちのロシアへの加勢も手伝って、日本人を追い出した。さらに翌年には択捉島を襲撃した。サンクトペテルブルクへ帰ったフォボストフらは、ラングスドルフの家で会食をした帰りに、川に落ちて死亡した。本書には、この時のいきさつについても書かれている。

妙義米軍基地反対闘争勝利記念碑2017年07月16日

 現在、在日米軍基地は、沖縄に集中しているが、かつてはそうではなかった。進駐軍が日本を占領すると、主に旧日本軍基地を米軍基地として使用したため、本土に米軍基地の多くが置かれた。朝鮮戦争に伴って、米軍基地の拡大が必要となると、新たな基地用地の提供が求められるなど、米軍基地の拡大が図られたが、各地で強い反対にあった。長野県軽井沢町から群馬県松井田町の浅間妙義演習地反対闘争などは、住民の抵抗で基地化をまぬがれた例として有名。
       
 群馬県安中市松井田町西野牧字恩賀には「妙義米軍基地反対闘争勝利記念碑」が建てられている。訪ねたときは、ススキに埋もれていた。
     
建立のいきさつが以下のように書かれている。
     
妙義米軍基地反対闘争勝利記念碑
 一九五三年二月、米軍側から恩賀八風平に山岳訓練学校を設置し、妙義・浅間一帯の広範囲にわたる地域を米軍基地とすることを示してきた。当然、中心である恩賀、そして県全体に反対運動が広がっていった。保守革新を問わず県行政も加わっての、反対行動となった。しかし時間がたつにつれて妙義軍事基地反対共同闘争委員会並同右恩賀同志会に結集する県民の闘いとなっていった。分裂攻撃に負けず二年間、熾烈な戦いが展開せれていった。そして、日本の米軍事基地反対闘争に例を見ない勝利の結果を得たのである。
 この闘いは基地闘争のあり方にいろいろな教訓を与えるほど極めて重要な典型的なものであった。いま三十有余年を経て、この地に記念碑を建立し、これらの歴史をふりかえるよすがとするものである。
 一九八七年九月 
  文書 菊池定則
     
 碑が建てられている場所は上信越道の碓氷軽井沢インターを降りて、荻野屋前の交差点を右折後、高岩山登山道入り口方面の脇道に入ってすぐのところ。碑は車道から離れているのでわかりにくい。下の地図の赤丸印のところです。
     
 車道の道脇に指導標があるが、小さくて見づらい。
     
 「妙義米軍基地反対闘争勝利記念碑」は住民運動の勝利の記念碑なのだけれど、この勝利が沖縄県名護市のキャンプシュワブにつながってゆく。一つの勝利が負担の押し付け合いになっているようで悲しい。
     
 さらに、横川方面へと2kmほど県道92号線を進むと、縄文時代を中心とする遺物が出土した「千駄木遺跡」がある。



本の紹介―北方世界の交流と変容 中世の北東アジアと日本列島2017年07月12日

    
天野哲也・臼杵勲・菊池俊彦/編『北方世界の交流と変容 中世の北東アジアと日本列島』 山川出版社(2006/8)
   
 シンポジウムの講演集。東北アジア・サハリン地域の考古学とこれら地域の歴史教育がテーマの論文が収録されている。 
   
 中世東北アジアと北海道・東北とは活発な交流が行われていたことが、近年、明らかになっている。このシンポジウムは、これら考古学上の成果の解説と、成果を日本の歴史教育にどのように反映させていくかが考察されている。
   
 靺鞨・渤海・金など、あまりなじみのない地域の歴史概要が記述されており、中世東北アジアの実情を理解するうえで有益だ。この本の中で半数を占める歴史教育に対する提言は「それはそうだよね」と同意できるけれど、興味は持てなかった。
   
 以下、参考のため、目次を記す。
   
第1部 北東アジア史のいま-研究と教科書の問題
 中世総合資料学から見た歴史教科書の問題点-概況と問題提起
 サンタンとスメレンクル-一九世紀の北方交易民の実像
第2部 環日本海北部の中世史料研究
 北東アジアの中世-靺鞨・女真の考古学
 史料からみた靺鞨・渤海・女真と日本列島
 金・元・明朝の北東アジア政策と日本列島
 アイヌ文化形成の諸問題-歴史教育におけるアイヌ文化の意味
 モンゴル帝国の真実-現地調査と最新の史料研究から
第3部 歴史教育の立場からみた北東アジアと日本
 日本史教育と北東アジア・北海道-日本史教育の立場から
 歴史教育者」教育・世界史教育からのコメント
 日本の歴史教育からみた「サハリンの歴史」
 高等学校世界史・日本史における北東アジア世界の教材化について

* * * * * *

<< 2017/10
01 02 03 04 05 06 07
08 09 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

RSS