本ー琉球・沖縄と海上の道2018年02月18日

  
豊見山和行、高良倉吉/編『琉球・沖縄と海上の道』吉川弘文館 (2005/3)
  
全体の2/3が、縄文時代から沖縄返還に至るまでの琉球・沖縄史。政治関連の記述が多い。古琉球・近世琉球・明治以降・沖縄戦・米軍占領時代と琉球の全時代について、一通り説明されている。
残りの1/3は沖縄の文化。
  
この本一冊を読むと、沖縄の歴史・文化が一通り理解できる。どの時代の歴史が特に詳しいというわけではない。

本ー周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」2018年02月17日

  
周縁の文化交渉学シリーズ, 6
西村昌也, 篠原啓方, 岡本弘道/編『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」:歴史学・考古学研究からの視座』2012.3 関西大学文化交渉学教育研究拠点
  
本書はシンポジウムの成果報告書で、専門性の高い論文集。 あまり興味のある論文はなかったけれど、タイトルだけ記載しておく。
  
 政治.中世大越の地方支配 / 桃木至朗
 古代朝鮮の政治体制と国際意識 / 篠原啓方
 近世琉球の政治構造について / 豊見山和行
 第1部へのコメント / 李成市
  
 外交.ベトナム使節と朝鮮使節の中国での邂逅. 6 / 清水太郎
 「小中華」の創出 / チョン・ダハム 述金子祐樹 訳
 近世琉球の国際的位置と対日・対清外交 / 岡本弘道
 第2部へのコメント / 夫馬進
  
 物質文化.ベトナム形成史における"南"からの視点 / 西村昌也
 古代東アジアにおける宮殿の系譜 / ヤン・ジョンソク 述篠原啓方 訳
 瓦と琉球 / 石井龍太
 第3部へのコメント / 西谷正
  
 総合討論 / 村井章介

自衛隊隊幹部候補生 知事 敗訴2018年02月15日

 群馬県高崎市綿貫の県立公園「群馬の森」には「朝鮮人追悼碑」が建てられている。この公園内には「我が国、ダイナマイト発祥の地」碑が建立されているので、戦時中は、軍関係工場があって、朝鮮人を過酷な労働に使役したのだろう。碑文によると、この碑は、日本が朝鮮人に対して多大な損害と苦痛を与えた歴史を深く記憶にとどめ、心から反省し二度と過ちを繰り返さないために建てられた。

 公園敷地使用延長の申し出に対して、群馬県知事は政治的行事があったとの理由で、使用延長を不許可にした。政治的行事とは来賓の中に「強制連行」の発言があったことを指している。
 2018年2月14日、前橋地方裁判所は群馬県に対して不許可処分を取り消す判決をした。この判断が確定すると、群馬県は使用延長の可否判断をやり直すことになる。判決では来賓の中に「強制連行」の発言があったことは政治的発言であると認定したものの、使用延長を不許可には該当しないとの判断だった。
 裁判所の判断は群馬県の許可条件に違反はあったものの軽微で影響も少なかったので、延長不許可は行き過ぎだとのようだ。来賓の発言によって設置者が政治的行事をしたことになるのか疑問だが、たとえ政治的発言があり許可条件に違反があったとしても、ただちに延長不許可は行き過ぎであるとする判断は妥当だ。

 群馬県の大沢知事は海上自衛隊幹部候補生学校の卒業だ。
 「自分たちに反対する人が、軽微な違反をしたときは、徹底的に痛めつける」「自分たちは、どんな悪いことをしても居直る」。これは、自衛隊や右翼に共通する手法なのだろうか。

本ー琉球の時代2018年02月08日

   
高良倉吉/著 『琉球の時代 大いなる歴史像を求めて』筑摩書房 1980.12
   
 この本は新版が出ているが、私が読んだのは旧版。
 著者の琉球史関連の本は多い。本書は薩摩藩侵入以前の古琉球について、グスク時代や大航海時代など琉球王国の実像が詳しい。
   
 第1章 黎明期の王統
 第2章 琉球王国への道
 第3章 大交易時代
 第4章 グスクの世界
 第5章 尚真王の登場
 第6章 琉球王国の確立
   
 琉球が大航海によって繁栄したのは中国皇帝から下賜された大型帆船と、中国からやってきた文人や航海技術者のおかげだった。中国から来た人たちやその子孫は、琉球政治にも深く関与し、琉球文化の発展にも大いに寄与した。本書にはこの間の事情について詳しく書かれている。
   
『 琉球人がアジアの荒海を越えて壮大な交易ルートを開拓するのに用いた船隻は中国の皇帝からタダで支給された大型のジャンク船であった。明実録には皇帝が琉球へ海船を下賜した記事が多く登揚しており、琉球側からの要請をうけて船の修理はおろか古くなり損壊のはげしい船にかえて新しい船隻を再支給するケースもまた多い。尚巴志の時代にはその船隻数がすでに三〇艘にも達していたというから、皇帝の琉球に対する恩情ぶりにはまことに驚くほかはない。どれほどの大きさの船だったかを示す記録はないが、十六世紀中葉の同種の中国船を例にとると、長さ四七メートル、幅一〇メートル、高さ四・五メートルもあり、乗員二〇〇~三〇〇名を擁し、そのほかに大量の商物を積みこむことができたという。皇帝より支給された船もおそらくこれと同様であったろう。貢物としての馬を一〇頭余も積みこんでいる事例があるから、かなりの大型船である。この船は、季節風に乗じて四〇~五〇日ほどでマラッカに達している。だが、いかに中国皇帝といえども、こうした温情ぶりを発揮できるのは国庫がゆたかた時期までであって、国力が衰えるにしたがい支給船隻の数量もしだいに下降線をたどり、一五世紀後半からは海船給賜の例が日立って少なくなっている。こうした状況を迎えて、琉球でも中・国式の造船術による。メイド・イン・リュウキュウのジャンク船を建造するようになったらしく、古謡オモロも船の進水式をさかんにうたっている。琉球製のジャンク船は、皇帝より支給された。メイド・イン・チャイナ"のものよりひとまわりは小型であったと老えられている。
 琉球船には通常三種類の名前がつけられた。その一つは、「恭字号船」「勝宇号船」のように千字文の好字を冠した名称をもつもので、その名は外交文書に記載される。今一つは「コシラマル」「トコシマル」などの純然たる船名であり、同様に外交文書に併記される。三つ目は一種の神名で、たとえば「せぢあらとみ」「いたきよら」などのように琉球語のめでたい言葉であらわされている。神名には、船出の際の儀式や航海安全の祈願などにおける宗教的祝福・加護の念がこめられているのだろう。
 第二の問題は航海術である。記録が残らないので正確な点は不明であるが、琉球船は中国三大発明の一つである羅針盤を装備していた形跡があり、たとえば船舶に「看針舎人」なる羅針盤係がおり、陸伝いにたどる沿岸航法や北極星・南十字星を指針とする天文航法とともに活用されたと思われる。『歴代宝案』中の執照文には船長に相当する「火長」、事務長に和当する「管船直庫」が記載され、彼らが「梢水」と称される水夫・要員を指揮・監督して海船をあやつり、使節団・礼物・附搭貨物などを無事目的地に届ける大任をおびていたらしいことがうかがえる。しかも、航海の最高責任者ともいうべきこの火長はほぼ例外なしに琉球に帰化および居住する中国人であったことも重要で、航海術にすぐれた中国人が大きく関与していたことが注目される。
 それにまた、海外に派遣された使節団の中の「通事」(通訳官)も例外なしに中国人であった。中国への進貢貿易のみでなく、東南アジア諸国への使船の通事もやはり中国人である。『歴代宝案』に収められた漢文の外交文書、表箋文・盗文・符文・執照文などもすべて中国入の手により作成されたものである。したがって、こうした技能を有する中国人集団の存在も主体的条件の三点目としてあげねばならないだろう。この技能集団は、中山王察度の代に移住したという「聞人三十六姓」であるが、彼らは琉球の対外交易の拠点、すなわち港市としての那覇に久米村(唐営、唐栄ともいう)と呼ばれる居留区(セッルメント)を営み、造船術・航海術・通訳・公文書作成などの対外関係業務には欠かせない人材であった。彼らの中には、琉球王国の対外関係業務に従事した後、皇帝のゆるしを得て故国に帰り余生を送る人物もいたが、多くは琉球にとどまり子々孫々海外交易事業に奉仕したのである。やがてその中から、尚巴志に仕え王相として絶大な権勢を得た懐機のような人物も輩出した。海禁政策下における、琉球でのこの中国人技能集団の活動は、むろん、基本的には皇帝の認可・現解を得たものである。したがって、琉球において対外交易の比重が大きければ大きいほど、これら中国人集団の占める比重もまた大きなものとならざるをえず、王相懐機の活躍もその間の事情を暗示するかのようである。
   
中国・朝鮮は当然としても、『歴代宝案』の伝える漢文の外交文書がなぜ東南アジア諸国にも通用しえたのだろうか。あるいはマラッカで、琉球使節団はいかなる言語を通じて商談をおこなったのだろうか。
琉球が交易をおこなった東南アジアの国々には、海禁政策以前から南海各地に居住する中国人がおり、また、海禁政策以後も密航して南の国々に渡る者もおり、彼らは一種の居留区をつくり現地で交易活動をおこない、中には当該国の対外関係業務に重用される人物もいたことがわかっている。
 漢文・中国語が東南アジアでも有効でありえたのは、こうした"南洋華僑"たちの存在と活動をぬきには理解できない。琉球が中国人技能集団久米村を持っていたように、東南アジア諸国もまた久米村的な集団を持っていたわけである。そうした状況に加えて、東南アジアにおける交易相手国が琉球同様に中国の朝貢体制の一員であったこと、つまり、漢文外交文書作成者と中国語通訳官を持たねばならなかった事情が存在するのであり、ここに当時アジアにおける最大の国際語であった中国語および漢文によるコミュニケーションの可能な前提があったというべきであろう。
 このように見てくると、琉球の対外交易を支えた客観的・主体的条件に占める中国の存在はまことに巨大であったといわねばならないが、今一つ主体的条件として加えねばならないのは、主体たる琉球が三山を経て第一尚氏王朝という一つの統一国家を持つに至っていたことである。というのは、あれほど対外交易を活発に営んだはずの琉球であるにもかかわらず、その社会には一人の商入もいなかった。琉球船は厳密には「商船」ではない。国王の派遣する官船であり、外交ルールを前提とした公用船であり、航海技術要員を除く乗組員はあくまでも使節人員(役人)であり、「商人」は一人も含まれていなかったのである。換言すれば、国家が国家みずから商人としてふるまう国営貿易であり、派遣される国家の要員(使節団)が商人的活動をおこない、公用船が商船としての性格を同時に持つところに特色があった。それゆえ、こうした交易の推進主体である国家が成立せず、国内が個々バラバラであったならば、対外交易の進展・隆盛は見られなかったはずだ。たしかに、久米村の中国人技能集団の対外交易に占める比重は大きかったが、しかし、彼らはみずから対外的に琉球を代表する存在とはなりえないのであり、その技能を琉球の国家に登用される存在でしかなかった。
 マラッカの琉球人をトメ・ピレスが「正直な人間」「同胞を売るようなことはしない」「シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」人々がかれらを欺いたとしたら、かれらは剣を手にして代金叢り立てる」「シナ人よりも正直交々で、差恐れられている」と伝えるのは、琉球人が一般の商人ではなく官人であったことを反映した描写だと思う。また別のポルトガル資料が・交易が済めばさっさと母国へ帰ってしまうとか、マラッカに居住してセツルメントをつくるようなことをしない民族だとか述べているのも、同様に琉球人が公務をおびての渡航であることと関係するのである。
 国家主体の仲継貿易という特徴をもつ琉球の対外交易は、相手国との友好関係を維持しその保障を得て取引をおこなうのであるから、そこには一種の外交戦略ともいうべきものをともなう。その際の最大のキメ手が中国との外交関係(朝貢関係)にあり、その関係を前提として諸国との外交関係(朝貢国間関係)もまた成立するのである。したがって、琉球の対外交易は、平和的・友好的な関係を前提とするものであり、歴代宝案所収の文書で琉球国王みずから表明するように、それが土産の少ない小国のとるべき唯一の賢明な道であった。
 しかし、琉球の対外交易は終始一貫して平和的立ったのでもない。成化六年(1470)三月付のマラッカ国王から琉球国王あての文は、貴殿が毎年わが国に派遣する使節はみなりっぱな人物ですが、ただ今度来航して来た使臣は私のとめるのもきかずマラッカで争闘をおこし困惑しております。こうした人物の派遣は今後ご遠慮ねがいますと述べている。これに対し琉球国王は遺憾の意を表し、帰国した関係者を処分したうえ、今後こうしたことのないよう善処を約束している。また、同じ年、中国で琉球使節団の団長が中国役人との問に不法な取引をおこない当局に摘発されるという事件も発生している。おそらく、こうしたトラブルは時折惹起したことであろう。派遣官人の中にはまれに少々荒っぽい人物も混じっていたのである。
 一四世紀末から一六世紀にかけて、琉球内部では王国形成の運動が着実に進行し、外部に対しては中国との関係を主軸とする壮大な対外交易が展開した。国内における王国形成のテンポは早まり、その物質的基礎として対外関係=対外交易が作用し、対外関係=対外交易を推進する主体として王国は自己の存在を国内的にも積みあげていったのである。王国形成と対外関係=対外交易というこの二つの相関した動向は、琉球が琉球として自己を成長させる過程であり、東アジアと東南アジアをむすぶ世界に一つの市民権を打ち立てる意義をもつ歴史的営みであったといえるように思う。P136-P141 』    
   
 中国皇帝により派遣された人は、優秀な文人・文化人・航海技術者だったが、こういう人だけが中国から来たわけではなかった。中国から密航してきた無頼漢もいた。
   
『 明実録は一四七八年(尚真が冊封を受ける年前)に「中山王世子尚真」から一年一貢の要請のあったことを記しており、これに対し、中国側は、「二年一貢を許しているにもかかわらずかかる要求をしてくる。琉球の意図は進貢にあるのではなく貿易にあるのだ。しかもその使臣はわが福州から密航した無頼の徒が多く、先王尚円の頃にはわが国で殺人・放火の所業までおこなっている。このうえになお貿易欲を申し立てているのだから、許可する必要はない」と述べて、「従来どおり二年一貢でよい」と要請を却下した。P193-P194』

本ー幕末日仏交流記2018年02月05日

  
テオドール・オーギュスタン フォルカード/著『幕末日仏交流記 フォルカード神父の琉球日記』 中央公論社(中公文庫)(1993/04)
 
 フォルカード神父は幕末の1844(天保15)年に琉球にやってきて2年間滞在した。オランダ人を除いて、鎖国中の日本に滞在した最初の西洋人と言うことになるのだろう。本書は、フォルカード神父が琉球に滞在した時の日記。琉球を出た後、長崎から朝鮮に行ったので、その時の日記も含まれる。
 当時、琉球は独立国であると同時に、中国の属国で、薩摩藩の支配を受けていた。このような微妙な状況下での外国人の来航は、琉球にとって迷惑だったようで、フォルカード神父は琉球滞在中は常に監視下に置かれ、交渉事も琉球は嘘をついて遅遅として進まなかった。フォルカード神父が琉球に滞在した目的は、布教にそなえて現地語を習得することと、布教の準備をすることだったが、言葉の習得も不十分で、布教どころか一般人との交流もできなく悶々とした日々を送った。
 
 フォルカード神父が上陸したとき、フランスとの通商を求めたが、以下の理由で琉球は拒否した(P41,P42)。
 ・琉球は清国の属国で重要事項を独自に決定できない
 ・琉球は貧しく輸出できる産物がない
 
 第6章(P141~P164)にはフランス政府の開国交渉に通訳として立ち会った時の記録が記されている。これによると、琉球政府は以下の理由で、条約締結を拒否した。
 ・琉球は清国の属国で朝貢の必要がある
 ・琉球は貧しく、朝貢に必要な産物や、輸出できる産物がない
 ・鎖国中の日本とトカラで貿易を行い朝貢に必要なものやコメなど生活必需品を入手しているが、フランスと条約を結ぶと日本との貿易ができなくなる恐れがある
 
 このように、条約交渉では、琉球が清国の属国であることが強調され、日本の支配を受けていることがひた隠しにされた。なお、2006年東大・日本史の入試問題(問3B)は、この部分が出題されている。

本ー船の文化からみた東アジア諸国の位相2018年02月04日

 
周縁の文化交渉学シリーズ5
岡本弘道/編『船の文化からみた東アジア諸国の位相―近世期の琉球を中心とした地域間比較を通じて』2012.1 関西大学文化交渉学教育研究拠点
 
本書はシンポジウムの成果報告書で、専門性の高い論文集。
 内容は、近代以前の中国の海洋交通について書かれた基調講演のほか、第一部は、近世琉球の海外交通・船舶の種類など、第二部は近世ベトナム・朝鮮・日本の船舶・造船について、それぞれ3件の論文が収められている。第3部は、全体のコメントが3件の論文。
 以下、目次を記載する。
 
基調講演
 中国帆船による東アジア海域交流 松浦章
 
第一部 島嶼国家琉球の船の文化
 船と琉球史―近世の琉球船をめぐる諸相 豊見山和行
 乗組員からみた琉中日交流史―護送船・飛船の例を中心に 深澤秋人
 フィールドから見えるもの―近世沖縄の船艇の消滅・変化・継承の動態 板井英伸
 
第二部 東アジア諸国の船の文化
 阮朝期ベトナム(1802~1883年段階)の造船業と船舶 Tran Duc Anh Son(西村昌也・上田新也訳)
 朝鮮王朝後期における船の文化 李哲漢・李恩善(篠原啓方訳)
 近世期における日本の船の地域的特徴 小嶋良一
 
第三部 コメント
 船舶史の視点からのコメント 安達裕之
 琉球・沖縄の視点からのコメント:記録に見る船―久米島を中心に 上江洲均
 近世東アジア史からのコメント:済州島漂着船とタカラガイ 上田信

本の紹介ーマンガ 沖縄・琉球の歴史2018年02月03日

 
上里隆史/著『マンガ 沖縄・琉球の歴史』河出書房新社 (2016/8/29)
 
 古代から本土復帰までの琉球の歴史をマンガで解説するもの。他の多くのマンガ本に比べて絵が小さく文章が多い。琉球は日本と異なった歴史なので、琉球史を大雑把に知るためには有益な本。著者は琉球史の専門家なので、内容は一応正確ではあるけれど、所詮マンガなので限界はある。
 本の前半は次代を追って琉球史が書かれている。後半は、琉球史のトピックス。

本の紹介―清朝の興亡と中華のゆくえ2018年01月21日

 
岡本隆司/著 『清朝の興亡と中華のゆくえ』講談社 (2017/3)
     
清の成立から滅亡までの政治史を年代を追って説明。詳しい。
明の滅亡に秀吉の朝鮮出兵が関係しており、清の滅亡には日清・日露戦争が関係している。このため、本の最初と最後の方には日本との関係もあるが、全体としては多くはない。

大学入試センター試験日本史Bー樺太国境標石2018年01月14日

 
 日露戦争の結果、南樺太が日本に割譲されると、樺太中央部の北緯50度線が日露の国境になり、日本は4個の標石を設置した。4個には、それぞれ天第一号から天第四号と刻まれていた。
 2018年1月の大学入試センター試験日本史Bは樺太国境標石に関する設問だ。現在、根室市歴史と自然の資料館に展示されている「天第二号」の国境標石の写真をもとに、これが樺太とのロシア国境に置かれたものであることを問うもの。樺太か朝鮮かの2択で、石碑の設置が1906年であるとのヒントがあるので易しかったと思う。
 
樺太国境標石は以下を参照ください。
http://nippon.nation.jp/Naiyou/KarafutoKokkyou/index.htm

本の紹介ー日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか2017年12月10日


池内敏/著『日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか』

 近世日朝関係史が専門の池内敏教授による、近世日朝関係の解説。

 著者は竹島問題の研究書『竹島問題とは何か(名古屋大学出版会)』、および一般向解説書『竹島 もうひとつの日韓関係史 (中公新書)』を出版している。本書は近世日朝関係を扱ったものだが、全体の1/4程度で竹島問題関連事項を解説している。

 本書は13章に分かれ、各章で日朝交流史関係の話題を扱っている。それぞれの章に、直接的関連はないので、興味がある章だけを読んでも構わない。この本は、大学の集中講義に使用したそうだ。欠席した講義があっても、話が分からなくなることがないように工夫されている、親切な講義だ。対象の学生はだれだったのだろう。歴史を専門とする学生が対象ならば「欠席するな」と言いたいし、学部生の一般教養だとしたら、内容が難しすぎるように感じる。
 本のタイトルは「日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか」となっているが、この問題に直接解答を与えるものではなく、日朝関係史の話題を提供するものになっている。

 竹島問題に直接関係しているのは『第3章 元禄竹島一件』『第9章 19世紀の鬱陵島』『第10章 竹島の日本領編入』の3つの章である。

『第3章 元禄竹島一件』は1692年に鬱陵島で日本と朝鮮の漁民が出会ってトラブルとなり、日本・朝鮮の交渉の結果、鬱陵島は朝鮮領であり日本人の渡島が禁止されるに至った事件の解説。この事件では、安龍福が現・竹島を朝鮮の領土だと主張したとかしないとか、いろいろな言説があるが、本章には安龍福の記述はない。信用のおけない歴史資料は使わないほうが良いということだろうか。
 P88に、「竹島考」の竹島松島之図が掲載されている。著者がどのような理由でこの地図を載せたのか分からない。この地図は1724年頃に作られたものだが、松島(現・竹島)が隠岐4島と同程度の大きさに描かれている。実際には隠岐4島で一番小さい知夫里島と比べても1/100以下なので、正保国絵図(1600年代に完成)と比べると、かなり稚拙な出来栄えだ。当時、現・竹島に関する知識が少なかったことがうかがえる。

 『第9章 19世紀の鬱陵島』は鬱陵島への日本人の進出の歴史が説明されている。中心は、幕末から明治だが、元禄竹島一件などにも触れられていて、第3章を読まなくても本章だけで、鬱陵島への日本人の進出の歴史が分かるようになっている。ここでは、史実のみ安龍福にも触れられている。本章は鬱陵島の話なので、竹島問題とは直接関係ないが、日本の竹島進出は常に鬱陵島への途中で利用されていたので、鬱陵島進出史を知ることが、竹島問題理解には欠かせない。
 P209に桂小五郎・大村益次郎等による鬱陵島開拓建白書の説明がある。司馬遼太郎の「花神」では、大村が桂に竹島開拓を提案した話があるが、司馬の小説は史実ではない。鬱陵島と無関係に竹島を開拓しようとしたことは、竹島が日本に編入される前後までなかった。

 『第10章 竹島の日本領編入』はページ数が若干少ない章で、江戸時代の竹島利用と竹島の日本領編入の説明。
 現在、日本政府の主張では、竹島は江戸時代から日本の領土であったとされているが、本書では、日本の竹島進出は常に鬱陵島への途中で利用されていた事実を指摘して、日本政府の主張を完全否定している。

 日本政府の主張は、川上健三の著書がもとになっているが、本書では、川上の研究方法自体を厳しく批判する。
 ・・・鳥取藩が「竹島も松島も鳥取藩領ではない」と述べたことを受けて元禄竹島渡海禁令が発令されたという事情に鑑みれば、元禄竹島渡海禁令は、法令上に「松島への渡海禁止」が明言されていなくても、そのことは含意されている。さらに、元文五年(一七四〇)に家業の保障を求めて寺社奉行と相談をした大谷九右衛門勝房は、当時、元禄竹島渡海禁令を「竹島.松島両島渡海禁制」と理解していたし、応対した寺社奉行たちも同様に「竹島・松島両島渡海禁制」と明言している。したがって、浜田藩家老の解釈は誤読であり、その誤読をもって「松島への渡航はなんらの問題もなかった」と述べるのもまた明白な誤りである。
 そして何より大問題なのは、川上健三は、外務省職員として自ら大谷家文書の原本調査をした際に、元禄竹島渡海禁令が「竹島・松島両島渡海禁制」であることを史料上に確認しておきながら、その大著『竹島の歴史地理学的研究』のなかではその事実を黙殺したことである。禁令が「竹島.松島両島渡海禁制」であることを知っておりながら、その文面には「松島渡海禁止」と書いていないと強弁し、元禄竹島渡海禁令後も日本人が松島(竹島/独島)を継続して活用した可能性を説いたことである。
 現在、日本外務省のHPに記される「竹島は江戸時代以来連綿として日本領である」ことの主張は、ほぼ全てにわたって川上健三『竹島の歴史地理学的研究』の文章からの引き写しである。このことをどのように考えるべきか。(P232,P233)

 川上健三は外務官僚で、外務省の政策が正しいものと国民に信じ込ませるために書いた本なのだろうから、まともな歴史研究書ではないということ、もっと言えば、外務省の主張は政治家の政治宣伝と同じ政治宣伝に過ぎないということだろう。

 1900年、韓国は勅令により鬱陵島と共に「石島」を領土に編入した。韓国では石島は現・竹島であると主張しているが、日本政府は否定している。本書では、日本に残る資料から、石島(標準韓国音トルソム)が竹島(韓国名・独島)(標準韓国音ドクト)のことである可能性を指摘している。(P240~P242)
 
 日本でも、マイナーな地名の漢字表記が一定しないことは多々あるので、「石島」「独島」と漢字表記が違っても普通のことだろう。
 群馬県西部の荒船山の最高峰は経塚山・行塚山・京塚山と言う。山頂の表示は経塚山で、途中の指導標には行塚山と書かれている。ガイドブックには京塚山と書かれているものがある。「京」と「経」はどちらも同じ音だけれど、「行」は音が異なる。どうしてこんなことになったのか、説明を聞いたことがないが、少し思い当たる節がある。
 荒船山の少し北側にある妙義山は「ミョウギ」と読むけれど、昭和初期以前生まれの地元の人たちは「ミヨギ」と言っていた。本当は「ミヨギ」ではなかったのだが、標準語の発音にはない音で、あえて書くと「ミヨギ」となるように私には聞こえた。ただし、私が少年のころ「ミヨギ」と言っていた父も、晩年になると「ミョウギ」と変わっていたので、この音はすでに失われている可能性が高い。荒船最高峰も松井田町・下仁田町の人達は、かつては「キヨヅカ」「ギヨヅカ」のように私には聞こえる発音をしていたはずだ。存在しない発音を聞いたとき、標準語の音で理解しようとすると、人によって聞こえ方が違ってくるものだ。ラジオ・テレビが普及した現在、若い人には地域独特の発音があったなど思いもよらないかもしれないが、昔はこれが普通のことだった。
 朝鮮の地方の人たちも、竹島のことを「石島」「独島」と言っていたのではなくて、その地域独自の発音だったのではないだろうか。その発音を中央の人が聞いた時、人によって異なった音に感じたという可能性は大きい。しかし、韓国でもラジオ・テレビが普及しているので、今となっては検証できないだろう。

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