本-サハリン南部の遺跡、サハリン南部の考古資料2017年07月22日

      
新岡武彦、宇田川洋/著 『サハリン南部の遺跡』北海道出版企画センター (1990/10)
     
宇田川洋/著『サハリン南部の考古資料』北海道出版企画センター (1992/12)
     
どちらの本も、樺太南部にある個々の遺跡の解説。この地域の古代史解説ではない。
『サハリン南部の遺跡』は358か所の遺跡それぞれの場所、発見、沿革などのデータを示している。
『サハリン南部の考古資料』はこれらの遺跡出土品の写真とその解説。

本の紹介―ラングスドルフ日本紀行2017年07月20日

   
ゲオルク・ハインリヒ・フォン ラングスドルフ/著、山本秀峰/訳『ラングスドルフ日本紀行 クルーゼンシュテルン世界周航・レザーノフ遣日使節随行記 』露蘭堂(2016/08)
  
 幕末の1804年、レザーノフを隊長とする使節団が長崎に来航し、通商を求めた。この時、幕府は、レザーノフ一行を半年間、幽閉状態に置いた末、通商を拒否した。この時の航海や長崎滞在について、以下の書籍が出版されている。
 クルウゼンシュテルン/著、羽仁五郎/訳 『クルウゼンシュテルン日本紀行』 (駿南社) 昭和6年(復刻版が雄松堂書店より出版)
 レザーノフ/著、大島幹雄/訳『日本滞在日記―1804‐1805』(岩波文庫)
  
 ラングスドルフは医師・自然科学者として、この航海に同行した。本書は、ラングスドルフによる日本やアイヌの観察記。長崎の滞在は6か月の長きにわたったが、ほとんど幽閉状態だったため、日本の風俗や自然に対する記述は限られていて残念だ。日本で通商を拒否されたレザーノフ一行はその後、北海道・樺太に立ち寄った。アイヌとは自由に交流したため、アイヌの習俗の記述がある。
 一行のうち、フォボストフらはレザーノフと別れて、1806年10月22日、樺太を襲撃、アイヌたちのロシアへの加勢も手伝って、日本人を追い出した。さらに翌年には択捉島を襲撃した。サンクトペテルブルクへ帰ったフォボストフらは、ラングスドルフの家で会食をした帰りに、川に落ちて死亡した。本書には、この時のいきさつについても書かれている。

妙義米軍基地反対闘争勝利記念碑2017年07月16日

 現在、在日米軍基地は、沖縄に集中しているが、かつてはそうではなかった。進駐軍が日本を占領すると、主に旧日本軍基地を米軍基地として使用したため、本土に米軍基地の多くが置かれた。朝鮮戦争に伴って、米軍基地の拡大が必要となると、新たな基地用地の提供が求められるなど、米軍基地の拡大が図られたが、各地で強い反対にあった。長野県軽井沢町から群馬県松井田町の浅間妙義演習地反対闘争などは、住民の抵抗で基地化をまぬがれた例として有名。
       
 群馬県安中市松井田町西野牧字恩賀には「妙義米軍基地反対闘争勝利記念碑」が建てられている。訪ねたときは、ススキに埋もれていた。
     
建立のいきさつが以下のように書かれている。
     
妙義米軍基地反対闘争勝利記念碑
 一九五三年二月、米軍側から恩賀八風平に山岳訓練学校を設置し、妙義・浅間一帯の広範囲にわたる地域を米軍基地とすることを示してきた。当然、中心である恩賀、そして県全体に反対運動が広がっていった。保守革新を問わず県行政も加わっての、反対行動となった。しかし時間がたつにつれて妙義軍事基地反対共同闘争委員会並同右恩賀同志会に結集する県民の闘いとなっていった。分裂攻撃に負けず二年間、熾烈な戦いが展開せれていった。そして、日本の米軍事基地反対闘争に例を見ない勝利の結果を得たのである。
 この闘いは基地闘争のあり方にいろいろな教訓を与えるほど極めて重要な典型的なものであった。いま三十有余年を経て、この地に記念碑を建立し、これらの歴史をふりかえるよすがとするものである。
 一九八七年九月 
  文書 菊池定則
     
 碑が建てられている場所は上信越道の碓氷軽井沢インターを降りて、荻野屋前の交差点を右折後、高岩山登山道入り口方面の脇道に入ってすぐのところ。碑は車道から離れているのでわかりにくい。下の地図の赤丸印のところです。
     
 車道の道脇に指導標があるが、小さくて見づらい。
     
 「妙義米軍基地反対闘争勝利記念碑」は住民運動の勝利の記念碑なのだけれど、この勝利が沖縄県名護市のキャンプシュワブにつながってゆく。一つの勝利が負担の押し付け合いになっているようで悲しい。
     
 さらに、横川方面へと2kmほど県道92号線を進むと、縄文時代を中心とする遺物が出土した「千駄木遺跡」がある。



本の紹介―北方世界の交流と変容 中世の北東アジアと日本列島2017年07月12日

    
天野哲也・臼杵勲・菊池俊彦/編『北方世界の交流と変容 中世の北東アジアと日本列島』 山川出版社(2006/8)
   
 シンポジウムの講演集。東北アジア・サハリン地域の考古学とこれら地域の歴史教育がテーマの論文が収録されている。 
   
 中世東北アジアと北海道・東北とは活発な交流が行われていたことが、近年、明らかになっている。このシンポジウムは、これら考古学上の成果の解説と、成果を日本の歴史教育にどのように反映させていくかが考察されている。
   
 靺鞨・渤海・金など、あまりなじみのない地域の歴史概要が記述されており、中世東北アジアの実情を理解するうえで有益だ。この本の中で半数を占める歴史教育に対する提言は「それはそうだよね」と同意できるけれど、興味は持てなかった。
   
 以下、参考のため、目次を記す。
   
第1部 北東アジア史のいま-研究と教科書の問題
 中世総合資料学から見た歴史教科書の問題点-概況と問題提起
 サンタンとスメレンクル-一九世紀の北方交易民の実像
第2部 環日本海北部の中世史料研究
 北東アジアの中世-靺鞨・女真の考古学
 史料からみた靺鞨・渤海・女真と日本列島
 金・元・明朝の北東アジア政策と日本列島
 アイヌ文化形成の諸問題-歴史教育におけるアイヌ文化の意味
 モンゴル帝国の真実-現地調査と最新の史料研究から
第3部 歴史教育の立場からみた北東アジアと日本
 日本史教育と北東アジア・北海道-日本史教育の立場から
 歴史教育者」教育・世界史教育からのコメント
 日本の歴史教育からみた「サハリンの歴史」
 高等学校世界史・日本史における北東アジア世界の教材化について

本―古代の海洋民オホーツク人の世界2017年06月12日

     
天野哲也/著『 古代の海洋民オホーツク人の世界 アイヌ文化をさかのぼる 』雄山閣 (2008/11)
     
 礼文島などのオホーツク文化の遺跡調査結果の詳細が示されるなど、オホーツク文化研究には重要な書だと思うが、素人には専門的すぎる。遺跡の発掘調査に興味のある人には面白い本かもしれない。
 本のメインはオホーツク文化研究ではあるが、擦文文化の解説もある。

本―片山通夫写真集2017年06月11日

   
『サハリン』未知谷 (2005/08)
『サハリン逍遥』群像社 (2017/03)
  
どちらの本も、サハリンやサハリン残留朝鮮人のモノクロ写真集。
これらの写真を見て何を感じ取るか。うーん。

本の紹介―トビニタイ文化からのアイヌ文化史2017年06月07日

    
大西秀之/著『トビニタイ文化からのアイヌ文化史』 同成社 (2009/03)
   
 ちょっと古いが、読み応えのある本だ。
   
 5から10数世紀ごろ、アムール河口域・樺太・千島・カムチャツカ・北海道北部・北海道北部のオホーツク海沿岸地域に、オホーツク文化が起こっている。この時期、北海道では擦文文化だった。オホーツクは突如として消滅するが、北海道東部ではオホーツク文化を引き継ぐ形でトビニタイ文化が起こった。この文化は、擦文文化とともに消滅して、北海道はアイヌ文化になった。
   
 本書は、トビニタイ文化の研究書。トビニタイ文化については、北海道古代史の中で数ページ触れられた本はあるが、1冊の本にまとめられたものは本書が唯一だろう。
 本書は、第1章でトビニタイ文化の研究の現状をまとめ、第2章ではトビニタイ土器と擦文土器の関係を考察し、トビニタイ文化の遺跡で発見される擦文土器の多くも模倣品であることを示す。また、トビニタイ文化の住居スタイルを考察し、トビニタイ文化の担い手はオホーツク文化の末裔であることを明らかにし、鉄器の輸入など擦文文化の交流を考察している。第3章では、トビニタイ文化の居住地など生業を考察する。トビニタイ文化の担い手たちは、サケ漁が主であったことを明らかにする。第4章では、トビニタイ文化が成立したいきさつとして、擦文文化との関連の他に、律令制の中での東北との関係についても考察している。
   
 本書は研究書なので、発掘などの事実と、それに基づく推察と示され、何が事実で何が推量なのであるかが明確に分離されていて、読んでいて混乱しない。
 事前知識がないと、読むのが難しい部分もあるが、多くは素人でも十分に理解できる記述になっている。トビニタイ文化の概要を結論だけ知りたい人には、詳しすぎる内容かもしれないが、じっくり理解したい人には、十分に読みごたえがあり、読んでいて、おもしろい。
   
 中世の地球高温期に栄えたオホーツク文化が寒冷化で滅んでゆく過程で、道東のオホーツク文化人たちは、生業を変え、擦文文化と交流することで、生き残りを図ったのだろう。最後は、擦文文化に吸収される形で消滅し、次のアイヌ文化の一部へと変容していった。それが、トビニタイ文化なのだろう。

本の紹介―死者たちは、いまだ眠れず2017年05月27日


大田昌秀/著『死者たちは、いまだ眠れず』新泉社 (2006/08)P244

 沖縄には、数百の慰霊塔が建てられているが、その中には、戦争・戦死を賛美する碑文が付けられているものも多い。
 本書は、このような状況を批判的に説明する。
 わたしは、このような沖縄守備軍首脳の慰霊のありようによって、付近一帯に林立する慰霊の塔の本来の意味が半ぽ喪失せしめられている気がしてなりません。とりわけ、この塔の建立に尽力したのが東京と地元の一部の権力者と指導者たちと聞いて唖然としました。
 とりわけ地元出身の指導者たちは、戦前は、政府の画一的皇民化政策に追従して沖縄文化を抹殺することに狂奔したのみか、沖縄戦では、一から一〇まで軍部の言いなりになって県内の若人たちを死地に追いやり、自らは敵上陸を目前にしながら真先に本土に脱出したり、安全地帯に逃避した当事者たちだからです。しかも戦時中は、日ごろの大言壮語とは逆に一般住民より真先に投降したのも彼ら「世のリーダー」たちでした。
 彼らは、敗戦後は、自らが戦前から戦時中にかけて犯したもろもろの悪業に対する反省もないまま、口では、おうむがえしに「平和」を唱えながら実際には、またもや中央の政治権力と結託して軍事力の強化を図っているしまつ。  それのみか、「慰霊の名」において、地元住民の強制された非業の死さえ殉国美談に仕立て上げ、恥じようともしない。戦争が何たるかも知らない若者たちをおだてあげ、祖国愛を鼓舞して再び銃を執らせようと、手をかえ品をかえて努めているありさまです。また、遺族会などの組織も、杖とも柱とも頼む男手を戦争で失った女たちに、子育てから教育、社会の復興まですべての責任を押し付けてはばからなかったのです。
 さらには、戦争で働き手を亡くし、弱い立場に立たされた遺家族に見舞金や年金などの話を持ちかけ、あたかもお金で「魂」を買い取るかのように意のままに操ってきたのです。あげくのはて、「国が責任を以て死者たちを靖国神社に護持せよ」と、戦前同様に靖国神社の国家護持を主張せしめたりしているのです。
 こうした嘆かわしい言動が、多くの場合、慰霊の塔の碑文をゆがめる結果になっているのではないでしょうか。 P44,P45
大宅壮一氏は、・・・つぎのように断定したのでした。
 「沖縄の人は確かに人がよい。しかし、知性や判断力のともなわない人のよさというものはよろしくない。どういう主人に対しても忠実に仕えた結果が『ひめゆりの塔』や『健児之塔』となった。・・・あの塔は二度と同じ誤ちをくりかえさないというモニュメントの意味なら結構だが、それを賛美するような風潮は避くべきである。」
 「主人を批判する知性や判断力を養うことだ。盲従・盲信はいけない。私は方々で舌禍を起こしている。私としては私の言に対して怒ってくれた方がうれしい。舌禍は効果を招くものだ。それがいくらかでも相手に反省のチャンスを与えたとすれば、むしろ舌禍万歳だ。とにかく沖縄にあること、沖縄の総ての傾向は日本自体にもあることで、これが沖縄の場合、拡大強化されて現れている。日本人の弱点盲点が沖縄ではより強くなっている。」P131

 本書にページ数を一番割いているところは、碑文を批判的に取り扱うところではなくて、沖縄戦の実相を慰霊塔を中心に明らかにすることと、著者の慰霊の経歴と「平和の礎」建立のいきさつが示されている。

本の紹介―東学農民戦争と日本2017年05月17日

      
中塚明, 井上勝生,朴孟洙/著 『東学農民戦争と日本』高文研 (2013/6)
     
 日清戦争のきっかけとなった朝鮮の反政府運動のことを、以前は「東学党の乱」と言ったが、最近は「甲午農民戦争」と言うことが多い。
 日本で書かれる多くの日本史では、日本の良いことを強調し、悪いことはなるべく書かないようになっているようだ。日清戦争は日本が朝鮮半島を植民地化する過程で起こった戦争だが、その点に触れると日本賛美につながらないため、日清戦争における朝鮮半島の話は日本史教科書ではあまり触れられない。以前の日本史教科書では、こんな感じで書かれていた。
 ①東学党の乱を抑えきれない朝鮮王府は清国に軍隊派遣を求める
 ②申告の派兵に対抗するため日本も朝鮮に派兵
 ③朝鮮半島の対処に関して、日清両国が対立
 ④日清戦争が起こる
 ⑤下関条約成立
 最近の日本史教科書には、日本軍が朝鮮王府を占拠したことや、日清両国の対立とは、朝鮮から撤兵することを主張した清国に対し、撤兵を拒否した日本との対立だったことが明記された日本史教科書もある。しかし、朝鮮農民軍と日本軍との戦争について触れられている日本史教科書は少ない。
     
 日本が派兵して朝鮮王府を占拠すると、これに反発した朝鮮農民軍と日本軍とが交戦し、農民軍に多数の犠牲者が出た戦争に対する記述が、本書では詳しい。日本軍の虐殺実態についても触れられる。
 日清戦争で最大の犠牲者を出した国は、日本でも清国でもなくて朝鮮だった。朝鮮農民軍戦死者数について、数万から数十万人説までさまざまな説があるが、本書では3万を下らないとしている。日清戦争の主戦場は朝鮮なのだから、朝鮮の視点がなくては日清戦争を理解することはできないので、本書によって、日本ではあまり語られてこなかった日清戦争の重要な点を理解することは、正しい日本史理解にとって有益だ。
 本書には、甲午農民戦争の記念碑についても書かれており、こういったものに興味がある人が、韓国旅行するときには便利だ。

本の紹介-沖縄戦戦没者を祀る慰霊の塔2017年05月14日

     
大田昌秀/著『沖縄戦戦没者を祀る慰霊の塔 』 那覇出版社 (1985/6)
           
沖縄県知事を務めた大田昌秀が琉球大学教授時代に執筆した著書。古い本で有名出版社ではないので、読む機会は少ないと思う。
     
 沖縄には、数百の慰霊塔が建てられているが、本書は、そのうちの主なもの百数十を取り上げて、各慰霊塔の写真を掲載し解説をしている。慰霊塔の解説は建立のいきさつなどを簡潔に書くにとどまる。ただし、いくつかの慰霊塔については、関連する話題を数ページにわたって解説するものもある。たとえば、久米島の痛恨の碑では、久米島虐殺事件の説明が書かれている。
     
 沖縄の慰霊塔を実際に見学すると、碑文が書かれたものも多い。碑文の文面には、戦争を賛美し国家に殉じることの意義を示すものも多い。本書の最初の20ページほどには、戦争賛美の碑文が書かれたいきさつなどにも触れられているが、個々の慰霊塔の碑文についてコメントはほとんどない。
 欲を言えば、各慰霊塔の碑文を掲載してほしかったし、碑文に対するコメントもほしかった。とは言え、慰霊碑の碑文に戦争賛美が多いのは、戦死を意味のある死と思いたい、遺族の心情もあるのだから、たとえ戦争賛美・戦意高揚を目的とするような碑文でも、直接的には批判はしずらいだろう。

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