本ー琉球・沖縄と海上の道2018年02月18日

  
豊見山和行、高良倉吉/編『琉球・沖縄と海上の道』吉川弘文館 (2005/3)
  
全体の2/3が、縄文時代から沖縄返還に至るまでの琉球・沖縄史。政治関連の記述が多い。古琉球・近世琉球・明治以降・沖縄戦・米軍占領時代と琉球の全時代について、一通り説明されている。
残りの1/3は沖縄の文化。
  
この本一冊を読むと、沖縄の歴史・文化が一通り理解できる。どの時代の歴史が特に詳しいというわけではない。

本ー周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」2018年02月17日

  
周縁の文化交渉学シリーズ, 6
西村昌也, 篠原啓方, 岡本弘道/編『周縁と中心の概念で読み解く東アジアの「越・韓・琉」:歴史学・考古学研究からの視座』2012.3 関西大学文化交渉学教育研究拠点
  
本書はシンポジウムの成果報告書で、専門性の高い論文集。 あまり興味のある論文はなかったけれど、タイトルだけ記載しておく。
  
 政治.中世大越の地方支配 / 桃木至朗
 古代朝鮮の政治体制と国際意識 / 篠原啓方
 近世琉球の政治構造について / 豊見山和行
 第1部へのコメント / 李成市
  
 外交.ベトナム使節と朝鮮使節の中国での邂逅. 6 / 清水太郎
 「小中華」の創出 / チョン・ダハム 述金子祐樹 訳
 近世琉球の国際的位置と対日・対清外交 / 岡本弘道
 第2部へのコメント / 夫馬進
  
 物質文化.ベトナム形成史における"南"からの視点 / 西村昌也
 古代東アジアにおける宮殿の系譜 / ヤン・ジョンソク 述篠原啓方 訳
 瓦と琉球 / 石井龍太
 第3部へのコメント / 西谷正
  
 総合討論 / 村井章介

本ー琉球の時代2018年02月08日

   
高良倉吉/著 『琉球の時代 大いなる歴史像を求めて』筑摩書房 1980.12
   
 この本は新版が出ているが、私が読んだのは旧版。
 著者の琉球史関連の本は多い。本書は薩摩藩侵入以前の古琉球について、グスク時代や大航海時代など琉球王国の実像が詳しい。
   
 第1章 黎明期の王統
 第2章 琉球王国への道
 第3章 大交易時代
 第4章 グスクの世界
 第5章 尚真王の登場
 第6章 琉球王国の確立
   
 琉球が大航海によって繁栄したのは中国皇帝から下賜された大型帆船と、中国からやってきた文人や航海技術者のおかげだった。中国から来た人たちやその子孫は、琉球政治にも深く関与し、琉球文化の発展にも大いに寄与した。本書にはこの間の事情について詳しく書かれている。
   
『 琉球人がアジアの荒海を越えて壮大な交易ルートを開拓するのに用いた船隻は中国の皇帝からタダで支給された大型のジャンク船であった。明実録には皇帝が琉球へ海船を下賜した記事が多く登揚しており、琉球側からの要請をうけて船の修理はおろか古くなり損壊のはげしい船にかえて新しい船隻を再支給するケースもまた多い。尚巴志の時代にはその船隻数がすでに三〇艘にも達していたというから、皇帝の琉球に対する恩情ぶりにはまことに驚くほかはない。どれほどの大きさの船だったかを示す記録はないが、十六世紀中葉の同種の中国船を例にとると、長さ四七メートル、幅一〇メートル、高さ四・五メートルもあり、乗員二〇〇~三〇〇名を擁し、そのほかに大量の商物を積みこむことができたという。皇帝より支給された船もおそらくこれと同様であったろう。貢物としての馬を一〇頭余も積みこんでいる事例があるから、かなりの大型船である。この船は、季節風に乗じて四〇~五〇日ほどでマラッカに達している。だが、いかに中国皇帝といえども、こうした温情ぶりを発揮できるのは国庫がゆたかた時期までであって、国力が衰えるにしたがい支給船隻の数量もしだいに下降線をたどり、一五世紀後半からは海船給賜の例が日立って少なくなっている。こうした状況を迎えて、琉球でも中・国式の造船術による。メイド・イン・リュウキュウのジャンク船を建造するようになったらしく、古謡オモロも船の進水式をさかんにうたっている。琉球製のジャンク船は、皇帝より支給された。メイド・イン・チャイナ"のものよりひとまわりは小型であったと老えられている。
 琉球船には通常三種類の名前がつけられた。その一つは、「恭字号船」「勝宇号船」のように千字文の好字を冠した名称をもつもので、その名は外交文書に記載される。今一つは「コシラマル」「トコシマル」などの純然たる船名であり、同様に外交文書に併記される。三つ目は一種の神名で、たとえば「せぢあらとみ」「いたきよら」などのように琉球語のめでたい言葉であらわされている。神名には、船出の際の儀式や航海安全の祈願などにおける宗教的祝福・加護の念がこめられているのだろう。
 第二の問題は航海術である。記録が残らないので正確な点は不明であるが、琉球船は中国三大発明の一つである羅針盤を装備していた形跡があり、たとえば船舶に「看針舎人」なる羅針盤係がおり、陸伝いにたどる沿岸航法や北極星・南十字星を指針とする天文航法とともに活用されたと思われる。『歴代宝案』中の執照文には船長に相当する「火長」、事務長に和当する「管船直庫」が記載され、彼らが「梢水」と称される水夫・要員を指揮・監督して海船をあやつり、使節団・礼物・附搭貨物などを無事目的地に届ける大任をおびていたらしいことがうかがえる。しかも、航海の最高責任者ともいうべきこの火長はほぼ例外なしに琉球に帰化および居住する中国人であったことも重要で、航海術にすぐれた中国人が大きく関与していたことが注目される。
 それにまた、海外に派遣された使節団の中の「通事」(通訳官)も例外なしに中国人であった。中国への進貢貿易のみでなく、東南アジア諸国への使船の通事もやはり中国人である。『歴代宝案』に収められた漢文の外交文書、表箋文・盗文・符文・執照文などもすべて中国入の手により作成されたものである。したがって、こうした技能を有する中国人集団の存在も主体的条件の三点目としてあげねばならないだろう。この技能集団は、中山王察度の代に移住したという「聞人三十六姓」であるが、彼らは琉球の対外交易の拠点、すなわち港市としての那覇に久米村(唐営、唐栄ともいう)と呼ばれる居留区(セッルメント)を営み、造船術・航海術・通訳・公文書作成などの対外関係業務には欠かせない人材であった。彼らの中には、琉球王国の対外関係業務に従事した後、皇帝のゆるしを得て故国に帰り余生を送る人物もいたが、多くは琉球にとどまり子々孫々海外交易事業に奉仕したのである。やがてその中から、尚巴志に仕え王相として絶大な権勢を得た懐機のような人物も輩出した。海禁政策下における、琉球でのこの中国人技能集団の活動は、むろん、基本的には皇帝の認可・現解を得たものである。したがって、琉球において対外交易の比重が大きければ大きいほど、これら中国人集団の占める比重もまた大きなものとならざるをえず、王相懐機の活躍もその間の事情を暗示するかのようである。
   
中国・朝鮮は当然としても、『歴代宝案』の伝える漢文の外交文書がなぜ東南アジア諸国にも通用しえたのだろうか。あるいはマラッカで、琉球使節団はいかなる言語を通じて商談をおこなったのだろうか。
琉球が交易をおこなった東南アジアの国々には、海禁政策以前から南海各地に居住する中国人がおり、また、海禁政策以後も密航して南の国々に渡る者もおり、彼らは一種の居留区をつくり現地で交易活動をおこない、中には当該国の対外関係業務に重用される人物もいたことがわかっている。
 漢文・中国語が東南アジアでも有効でありえたのは、こうした"南洋華僑"たちの存在と活動をぬきには理解できない。琉球が中国人技能集団久米村を持っていたように、東南アジア諸国もまた久米村的な集団を持っていたわけである。そうした状況に加えて、東南アジアにおける交易相手国が琉球同様に中国の朝貢体制の一員であったこと、つまり、漢文外交文書作成者と中国語通訳官を持たねばならなかった事情が存在するのであり、ここに当時アジアにおける最大の国際語であった中国語および漢文によるコミュニケーションの可能な前提があったというべきであろう。
 このように見てくると、琉球の対外交易を支えた客観的・主体的条件に占める中国の存在はまことに巨大であったといわねばならないが、今一つ主体的条件として加えねばならないのは、主体たる琉球が三山を経て第一尚氏王朝という一つの統一国家を持つに至っていたことである。というのは、あれほど対外交易を活発に営んだはずの琉球であるにもかかわらず、その社会には一人の商入もいなかった。琉球船は厳密には「商船」ではない。国王の派遣する官船であり、外交ルールを前提とした公用船であり、航海技術要員を除く乗組員はあくまでも使節人員(役人)であり、「商人」は一人も含まれていなかったのである。換言すれば、国家が国家みずから商人としてふるまう国営貿易であり、派遣される国家の要員(使節団)が商人的活動をおこない、公用船が商船としての性格を同時に持つところに特色があった。それゆえ、こうした交易の推進主体である国家が成立せず、国内が個々バラバラであったならば、対外交易の進展・隆盛は見られなかったはずだ。たしかに、久米村の中国人技能集団の対外交易に占める比重は大きかったが、しかし、彼らはみずから対外的に琉球を代表する存在とはなりえないのであり、その技能を琉球の国家に登用される存在でしかなかった。
 マラッカの琉球人をトメ・ピレスが「正直な人間」「同胞を売るようなことはしない」「シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」人々がかれらを欺いたとしたら、かれらは剣を手にして代金叢り立てる」「シナ人よりも正直交々で、差恐れられている」と伝えるのは、琉球人が一般の商人ではなく官人であったことを反映した描写だと思う。また別のポルトガル資料が・交易が済めばさっさと母国へ帰ってしまうとか、マラッカに居住してセツルメントをつくるようなことをしない民族だとか述べているのも、同様に琉球人が公務をおびての渡航であることと関係するのである。
 国家主体の仲継貿易という特徴をもつ琉球の対外交易は、相手国との友好関係を維持しその保障を得て取引をおこなうのであるから、そこには一種の外交戦略ともいうべきものをともなう。その際の最大のキメ手が中国との外交関係(朝貢関係)にあり、その関係を前提として諸国との外交関係(朝貢国間関係)もまた成立するのである。したがって、琉球の対外交易は、平和的・友好的な関係を前提とするものであり、歴代宝案所収の文書で琉球国王みずから表明するように、それが土産の少ない小国のとるべき唯一の賢明な道であった。
 しかし、琉球の対外交易は終始一貫して平和的立ったのでもない。成化六年(1470)三月付のマラッカ国王から琉球国王あての文は、貴殿が毎年わが国に派遣する使節はみなりっぱな人物ですが、ただ今度来航して来た使臣は私のとめるのもきかずマラッカで争闘をおこし困惑しております。こうした人物の派遣は今後ご遠慮ねがいますと述べている。これに対し琉球国王は遺憾の意を表し、帰国した関係者を処分したうえ、今後こうしたことのないよう善処を約束している。また、同じ年、中国で琉球使節団の団長が中国役人との問に不法な取引をおこない当局に摘発されるという事件も発生している。おそらく、こうしたトラブルは時折惹起したことであろう。派遣官人の中にはまれに少々荒っぽい人物も混じっていたのである。
 一四世紀末から一六世紀にかけて、琉球内部では王国形成の運動が着実に進行し、外部に対しては中国との関係を主軸とする壮大な対外交易が展開した。国内における王国形成のテンポは早まり、その物質的基礎として対外関係=対外交易が作用し、対外関係=対外交易を推進する主体として王国は自己の存在を国内的にも積みあげていったのである。王国形成と対外関係=対外交易というこの二つの相関した動向は、琉球が琉球として自己を成長させる過程であり、東アジアと東南アジアをむすぶ世界に一つの市民権を打ち立てる意義をもつ歴史的営みであったといえるように思う。P136-P141 』    
   
 中国皇帝により派遣された人は、優秀な文人・文化人・航海技術者だったが、こういう人だけが中国から来たわけではなかった。中国から密航してきた無頼漢もいた。
   
『 明実録は一四七八年(尚真が冊封を受ける年前)に「中山王世子尚真」から一年一貢の要請のあったことを記しており、これに対し、中国側は、「二年一貢を許しているにもかかわらずかかる要求をしてくる。琉球の意図は進貢にあるのではなく貿易にあるのだ。しかもその使臣はわが福州から密航した無頼の徒が多く、先王尚円の頃にはわが国で殺人・放火の所業までおこなっている。このうえになお貿易欲を申し立てているのだから、許可する必要はない」と述べて、「従来どおり二年一貢でよい」と要請を却下した。P193-P194』

本ー幕末日仏交流記2018年02月05日

  
テオドール・オーギュスタン フォルカード/著『幕末日仏交流記 フォルカード神父の琉球日記』 中央公論社(中公文庫)(1993/04)
 
 フォルカード神父は幕末の1844(天保15)年に琉球にやってきて2年間滞在した。オランダ人を除いて、鎖国中の日本に滞在した最初の西洋人と言うことになるのだろう。本書は、フォルカード神父が琉球に滞在した時の日記。琉球を出た後、長崎から朝鮮に行ったので、その時の日記も含まれる。
 当時、琉球は独立国であると同時に、中国の属国で、薩摩藩の支配を受けていた。このような微妙な状況下での外国人の来航は、琉球にとって迷惑だったようで、フォルカード神父は琉球滞在中は常に監視下に置かれ、交渉事も琉球は嘘をついて遅遅として進まなかった。フォルカード神父が琉球に滞在した目的は、布教にそなえて現地語を習得することと、布教の準備をすることだったが、言葉の習得も不十分で、布教どころか一般人との交流もできなく悶々とした日々を送った。
 
 フォルカード神父が上陸したとき、フランスとの通商を求めたが、以下の理由で琉球は拒否した(P41,P42)。
 ・琉球は清国の属国で重要事項を独自に決定できない
 ・琉球は貧しく輸出できる産物がない
 
 第6章(P141~P164)にはフランス政府の開国交渉に通訳として立ち会った時の記録が記されている。これによると、琉球政府は以下の理由で、条約締結を拒否した。
 ・琉球は清国の属国で朝貢の必要がある
 ・琉球は貧しく、朝貢に必要な産物や、輸出できる産物がない
 ・鎖国中の日本とトカラで貿易を行い朝貢に必要なものやコメなど生活必需品を入手しているが、フランスと条約を結ぶと日本との貿易ができなくなる恐れがある
 
 このように、条約交渉では、琉球が清国の属国であることが強調され、日本の支配を受けていることがひた隠しにされた。なお、2006年東大・日本史の入試問題(問3B)は、この部分が出題されている。

本ー船の文化からみた東アジア諸国の位相2018年02月04日

 
周縁の文化交渉学シリーズ5
岡本弘道/編『船の文化からみた東アジア諸国の位相―近世期の琉球を中心とした地域間比較を通じて』2012.1 関西大学文化交渉学教育研究拠点
 
本書はシンポジウムの成果報告書で、専門性の高い論文集。
 内容は、近代以前の中国の海洋交通について書かれた基調講演のほか、第一部は、近世琉球の海外交通・船舶の種類など、第二部は近世ベトナム・朝鮮・日本の船舶・造船について、それぞれ3件の論文が収められている。第3部は、全体のコメントが3件の論文。
 以下、目次を記載する。
 
基調講演
 中国帆船による東アジア海域交流 松浦章
 
第一部 島嶼国家琉球の船の文化
 船と琉球史―近世の琉球船をめぐる諸相 豊見山和行
 乗組員からみた琉中日交流史―護送船・飛船の例を中心に 深澤秋人
 フィールドから見えるもの―近世沖縄の船艇の消滅・変化・継承の動態 板井英伸
 
第二部 東アジア諸国の船の文化
 阮朝期ベトナム(1802~1883年段階)の造船業と船舶 Tran Duc Anh Son(西村昌也・上田新也訳)
 朝鮮王朝後期における船の文化 李哲漢・李恩善(篠原啓方訳)
 近世期における日本の船の地域的特徴 小嶋良一
 
第三部 コメント
 船舶史の視点からのコメント 安達裕之
 琉球・沖縄の視点からのコメント:記録に見る船―久米島を中心に 上江洲均
 近世東アジア史からのコメント:済州島漂着船とタカラガイ 上田信

本の紹介ーマンガ 沖縄・琉球の歴史2018年02月03日

 
上里隆史/著『マンガ 沖縄・琉球の歴史』河出書房新社 (2016/8/29)
 
 古代から本土復帰までの琉球の歴史をマンガで解説するもの。他の多くのマンガ本に比べて絵が小さく文章が多い。琉球は日本と異なった歴史なので、琉球史を大雑把に知るためには有益な本。著者は琉球史の専門家なので、内容は一応正確ではあるけれど、所詮マンガなので限界はある。
 本の前半は次代を追って琉球史が書かれている。後半は、琉球史のトピックス。

本―防人の島「対馬」が危ない!2018年01月31日

 
日本会議地方議員連盟/編集『防人の島「対馬」が危ない!』 明成社 (2009/4)
 
 五十数ページの薄い本。本の内容には少々あきれた。対馬の過疎化・高齢化以上に、地元議員の劣化が進んでいるのだろうか。
 対馬は朝鮮半島に近いので、近年韓国人観光客が増大している。しかし、対馬の人口はS35年には7万人程度だったのに、現在では3万人程度と大幅に減少し、また、高齢化も進んでいる。
 本書は、日本会議の地方議員を中心に、対馬が韓国に奪われる危機であることを解いて、特別立法が必要であることを主張するもの。対馬では、韓国資本が観光開発に入り、一部の土地を買っていることは事実だ。人口減少と韓国人観光客の急増により、島内には韓国人がいて、ハングルの掲示板を見かけることも事実だ。このため、国土防衛上好ましくないと考える気持ちもわからないではない。
 国境の町は、国境貿易・交流を通じて発展してきた。江戸時代の対馬も朝鮮と日本の交流の拠点として潤っていた。このように考えると、過疎地の対馬が韓国人観光客によって活性化することは好ましいことだ。また、韓国資本が投入されて、観光開発がなされることも、国境の町の発展には好ましいことと言える。
 しかし、本書では、韓国人観光客の増大と韓国資本によって国境の町が乗っ取られるのではないかと危機意識を主張している。日本人住民が減少して、韓国人住民が増加すれば地方自治・国境防衛に問題が生じる可能性はあるが、観光客と住民とは異なるので、本書の主張は、少々的外れな感じがする。もっとも、気付いたときには手遅れとならないように、国家防衛を早手回しすることは必要なことで、そのために、危機意識を誇張しているのならば、それは理解できる。
 ただし、本書の主張する対策はお粗末で情けないものだ。日本の離島では、小笠原・奄美・沖縄に対して復興特別処置法があるので、類似の法律を対馬にも作るように求めている。しかし、小笠原・奄美・沖縄は終戦後占領された地域が日本に復帰したために、特別処置法が制定されたものであるのに対して、対馬は一貫して日本の領土なので、小笠原・奄美・沖縄の例は参考にならない。また、本書の最後に特別処置法の制定を求める長崎県神道議員連盟会長の要望が記載されているが、これによると、要するに「現在実施されている離島振興の枠を超えた抜本的な各種施策」を求めているもので、具体的な中身が全くない。常識的に考えたら、対馬の振興は、韓国資本を導入して、韓国人観光客を増やすことだ。これを否定しながら具体策もなく「なんとかして」と言っても、難しいだろう。地元の振興策は、地元を一番よく知っている、地元議員が具体策を練らない限り、話は進まない。

 戦前・朝鮮半島との交通の拠点として栄えた敦賀は、戦後になって、その機能が失われると、一気にさびれてしまった。そのような状況を立て直すために、敦賀市は原発を積極的に誘致して町の発展につとめた。特に危険と思われていた『もんじゅ』も敦賀に作られた。敦賀の例を参考にすれば、韓国人観光以外の方法で対馬が発展するためには『高レベル放射性廃棄物最終処分場』の誘致が現実的な解決策だと思う。そうすれば、韓国人観光客も減るだろう。ところが、対馬市議会は2007年に誘致反対の決議をしている。「あれもだめ、これもだめ、対策はないので何とかしてくれ」では情けない。

本の紹介―清朝の興亡と中華のゆくえ2018年01月21日

 
岡本隆司/著 『清朝の興亡と中華のゆくえ』講談社 (2017/3)
     
清の成立から滅亡までの政治史を年代を追って説明。詳しい。
明の滅亡に秀吉の朝鮮出兵が関係しており、清の滅亡には日清・日露戦争が関係している。このため、本の最初と最後の方には日本との関係もあるが、全体としては多くはない。

本の紹介ーニッポンのサイズ2018年01月07日


石川英輔/著『ニッポンのサイズ 身体ではかる尺貫法』(2012.1)講談社文庫

 計量単位はメートル法による、SI単位系の使用が原則義務付けられている。長さはメートル、質量はキログラム、時間は秒、電流はアンペアを基本とする。日本でメートル法が実施されたのは明治中ごろであるが、実際に普及するのは戦後になってからである。それ以前は尺貫法を基準とする単位が使われていた。
 本書はメートル法以前に日本で使用されていた計量単位の解説。

 長い距離の単位は「里」が使用されていた。明治24年に1里=約4kmと定められる以前には、日本においても様々な「里」が使用されていた。この間の事情については、第11章に詳しい。「里」の理解のために大変参考になるので、最後に主要部分を記載しておく。

 日本の領土問題のうち、韓国が領有している竹島・独島について、島根県の竹島問題研究会座長を務める下條正男・拓殖大学教授は史料の恣意的解釈が多く、またしばしばその所説を変更するなど問題が多いことで知られている。(坂本悠一『社会システム研究』2014年9月参照)
 下條氏の著書『安龍福の供述と竹島問題』P20には、「安龍福の地理的理解は正確ではなかったようです。・・・鬱陵島と松島(現在の竹島)の間は五十里(約200キロ)であったとしたことにもあらわれています。・・・鬱陵島から松島にはその日のうちに到着したとしているからです。・・・小舟で約200キロあるとした鬱陵島から松島に、その日のうちに着くのは、物理的に不可能に近い・・・」と書かれている。鬱陵島と竹島の距離は約90㎞なので、帆船の順風時の船速4~5ノットとすると、10時間程度で到着することになり、「その日のうちに到着したとしている」安龍福の供述は現実と合致する。下條氏は明治中期以降に定められた1里=4キロメートルを当てはめて、200キロメートルであると即断して、「その日のうちに着くのは物理的に不可能に近い」と判断したのだろうか。
 本書は講談社文庫という一般人を対象とした書籍であるが、この程度の教養さえあれば、下條氏でも、もう少しまともな本が書けたのではないかと思うと、残念である。
(参考)
ニッポンのサイズ 第11章 一里という距離(P116~P123)

(一部省略)
 長い間、日本人が慣れ親しんできた距離の単位の「里」は、もともとは古代中国の周にはじまる面積の単位だった。周代の一里は、一辺が三〇〇歩つまり一八〇〇尺の正方形だったから、この一辺の長さが「里」として独立して長さの単位となった。一辺一里の正方形の面積を同じく一里と呼べば混乱しそうだが、昔の人は別に困らなかったらしく、距離の単位として普及した。
 この場合の一尺を、カネ尺のもとになった三〇センチに近い長さとすれば、周代の一里は、五四〇メートルぐらいの距離になる。歩いて五分ぐらいなので手頃だったせいか、中国では古代から、この五五〇メートル前後の一里を距離の単位として長い間使ってきた。
 しかし、公式の単位として決まったのは清朝になってからで、清朝の一里は、五七八メートル。ほぼ同じ時代の李朝の一里も、五五〇メートルぐらいだから、いちいち精密な測量をしなければ、同じ距離といっていいだろう。中国の国民党政府では、きりの良いところで五〇〇メートルを一里とした。だが、この「新一里」が広大な中国でどこまで普及したかはわからない。
 日本でも、律令制度ができる前から、五町の一里と六町の一里があった。この場合の一町は六〇間で約一〇九メートルだから、五町は約五四五メートル、六町は約六五四メートルだ。六町の一里がもっとも一般的だったが、実測して距離を決めるのではなく、歩く時間や旅行の日程から割り出した数なので、五町の一里でも六町の一里でも、実質的には大差なかったそうだ。
 このように、東アジア漢字文化圏の一里は、長い間、五〇〇メートルと六〇〇メートルの間ぐらいの距離が普通だった。
 千葉県東北部の海岸として有名な九十九里浜は、北の刑部岬から南は太東崎まで約五六キロメートルあるが、五町を一里とすれば一〇四里。鎌倉の七里ガ浜は、約四キロメートルなので、七・四里。いずれも、九十九や七のように語呂や縁起の良い数におきかえて地名にしてあるが、でたらめな数値でないことがわかる。

三六町の一里
 われわれが親しんでいた一里一時間の一里は、この六倍つまり三六町だったが、昔の日本にはいろいろな一里があった。なぜ多くの種類ができたかというと、里を距離の単位というより、徒歩の旅にかかる労力を表す数字として使うようになったからである。
 山坂の多いコースなら短い距離を一里とし、平坦なコースなら長い距離を一里としたほうが、実際に旅をする人にとって労力の見当がつけやすい。具体的にいうなら、三六町の一里の距離は、七二町の一里の半分しかないが、平均して二倍の時間がかかる道に使えば、同じ里数ならどこでもほぼ同じ時間で行き着ける。そのため、地形の複雑なわが国では、地方によって、三六町里、四〇町里、四八町里、五〇町里、六〇町里、七二町里などさまざまな里ができた。
 『単位の歴史辞典』(小泉袈裟勝編著)によると、江戸時代には、平坦な山陽道が七二町里、難所の多い東海道、中山道が三六町里、伊勢路が中間の四八町里というように、街道によって使い分けていた。この場合、一里は一定の距離を表す単位ではなく、街道によって違う旅程の区切りを示す数だったが、そういう慣行を認める一方で、徳川幕府は、慶長七年(一六〇二)に三六町を一里と定める布令を出した。
 明治二年(一八六九)、明治政府は慣行としてのさまざまな里を廃止して、三六町の一里だけに統一し、明治二四年(一八九一)の度量衡法では、一里=三六町=一万二九六〇尺=43,200/11メートルと決めた。計算すると、三・九二七キロメートル、大まかにいって四キロメートルのこの一里こそが、私がかつて親しんだ一時間で歩ける一里だった。
 昔の時間なら半刻で一里というところで、このあたりが人間サイズの単位のなじみやすさなのだろう。私は今でも、はじめての場所へいく時など、地図を見ながら一キロメートル一五分ぐらいで所要時間の見当をつけて、タクシーにのるか歩くかを決めるが、本当に身にしみついているのは一里一時間の感覚である。(以下省略)

本―ロシア漂流民・ソウザとゴンザの謎2017年12月14日

 
瀬藤祝/著『ロシア漂流民・ソウザとゴンザの謎 サンクトペテルブルクの幻影』新読書社 (2004/04)
 
 ソウザとゴンザは、享保13年(1728年)、ロシアに漂流した薩摩の青年。乗り組んでいた薩摩藩の船が嵐のため漂流した末、カムチャツカ半島に流れ着いた。二人以外は原住民に殺害されたり病死したりしたが、生き残った二人は首都サンクトペテルブルグに送られ、そこで日本語教師となる。ソウザとゴンザの死後もロシアの日本語学校は続いた。しかし、ソウザ・ゴンザの日本語は、鹿児島の庶民の言葉だったため、日本語学校で学んだロシア人の日本語は江戸の武士には通じず、その後の外交交渉等の役に立たなかった。
 
 本書はソウザとゴンザに関連した歴史書ではなく、史実らしきをもとにした物語を、お芝居風に描いたもの。

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