本の紹介-日ソ戦争 ― 2024年11月07日

麻田雅文/著『日ソ戦争-帝国日本最後の戦い』(中公新書 2798) (2024/4)
本書「おわりに」には以下のように記されている。
『日ソ戦争は、日本に無条件降伏を強いるという戦略目標を達成するために行われた、連合国の数ある作戦の一つである。軍事的にはそれ以上のものではない。しかし、この戦争を政治的にどう見るかは大きな争点だ。』
本書は日ソ戦争の起こりから、満州での戦争、樺太・千島での戦争を説明する。多くの文章は、軍事的に見た史実を解明するものであり、客観的な事実を知りたい者にとっては有益である。
日本側から見た満州での戦争については、主観的・政治的な本が多いなか、比較的客観的に書かれた本書は参考になるだろう。ただし、ソ連側からの本として「ジューコフ元帥回想録」が日本語に翻訳されて出版されているので、詳しい戦争の様態を知りたい場合は、こちらを読んだ方が良い。
千島・樺太での戦闘の説明では、玉音放送以降にソ連が戦闘を止めなかったことをくどくどと恨みがましく書いているが、この部分は客観的な記述ではなくて著者の思いだろう。玉音放送は、国民向け宣言にすぎず、8月14日の連合国宛通告は、ポツダム宣言受諾の用意あることを宣言しているに過ぎない。陸軍に対する命令は大陸命によるが、大陸命第千三百八十五号・大陸命第千三百八十八号では、第五方面軍を含む外地軍のうち支那派遣軍を除き、昭和二十年八月二十五日零時以降一切の武力行使を停止することが命じられた。実際には、命令が必ずしも行き渡らなかったので、9月2日に大陸命特第一号・大陸指特第一号で再度完全停戦命令を出している。
ところで、樺太真岡の占領では、本書にはソ連軍がいきなり艦砲射撃をしたとの記述がある。しかし、日本人の回想には、ソ連軍艦が入港に際して儀礼として空砲を撃ったところ、現地守備隊が砲撃したため、艦砲射撃が始まったとの話もあり、本書の記述の信憑性は検討の必要があるように感じる。
本書には、ソ連兵による略奪・強姦等の犯罪行為や、日本人が日本人女性を売春婦として差し出した話が記載されている。犯罪行為についていえば、日本軍人の中には悪い人も良い人もいたのと同様、ソ連軍人やアメリカ軍人の中には悪い人も良い人もいたという、単純な事実を表しているに過ぎない。個々の単発的事例紹介ではなくて、もう少し全体状況がわかるような記述にしてほしかった。ソ連兵の犯罪行為が組織的だったり、割合が高かったり、長期間に及んだのならば、それは歴史的客観的記述として重要かもしれないが、ソ連兵に関しては、そのような事実はない。戦争中の日本将兵の強姦は組織的な場合があり、日本国内における米兵の性犯罪は戦後70年を経た今でも続いているので、そういうことの腹いせの記述なのかもしれない。
ちょっといただけない内容がある。P232に「もし、米軍が先んじて千島列島の作戦担当区域に進駐していたらどうなっていただろうか」とある。歴史に「たら」「れば」をいうのは意味のないことだ。「米軍が進駐していたら」と考えた場合、現実とは、どの状況がどのように違っていたからそうなったのかによって、結果も全然異なる。複雑な現実をちょっと変えた場合の正確なシミュレーションなどできない。
もう一ついただけない記述がある。第4章のタイトルは「日本の報復を恐れたスターリン」である。イタコでもないかぎり、個人の気持ちなどわからないものだし、スターリンの日記にそうかかれていたとしても、誰だって、いろいろなことを考えるものだ。スターリンには恐れる気持ちも、恐れない気持ちもあっただろう。
総じて言えば、本書は、客観的な歴史書の部分が多い。ただし、著者の思いやが強い部分があって、読んでいてめんどくさくなった。
軍国主義日本に対する勝利の日 ― 2024年09月05日

9月3日、ロシアでは、軍国主義日本に対する勝利と第2次大戦終結の日。
アメリカでは9月2日が、Victory over Japan Day。
写真は、軍国主義日本に対する勝利に貢献した人に授与された記章。
9月2日、3日、プーチンはモンゴルを訪問した。この日を訪問日に選んだのは、ロ・中・朝にモンゴルを加えた対日包囲網を誇示するためであることは明らかだろう。日本の報道では、ICCとの関係を解説するものがほとんどで、ロ・中・朝・蒙の対日連携を伝えるものがない。
ロシア極東大函館校が閉校 ― 2024年06月13日
北の大地が育んだ古代-オホーツク文化と擦文文化- ― 2023年11月23日
戦勝記念日 ― 2023年09月03日

9月3日、ロシアでは、軍国主義日本に対する勝利と第2次大戦終結の日。
アメリカでは9月2日が、Victory over Japan Day。
写真は、軍国主義日本に対する勝利に貢献した人に授与された記章。
本の紹介-ウクライナ「情報」戦争 ― 2023年01月15日

佐藤優/著『ウクライナ「情報」戦争 ロシア発のシグナルはなぜ見落とされたか』徳間書店(2022.9)
著者は元モスクワ大使館職員。現在、ロシア・ウクライナの政治に関する、日本の第一人者。
本書はウクライナ・ロシア戦争を客観的に記載しており好感が持てる。
第1章はロシア側の報道。日本では、ウクライナ側の謀略報道を垂れ流しているマスコミが多い中、本書の記述は有益である。著者のコメントも随所にあるが、量が少なく、この問題に詳しくない読者には、ロシア側情報の正否が分からない。もう少し、著者の詳しい解説が欲しいと思った。
第2章は戦争の時系列経緯。本書の出版は2022年9月なので、8月までが記述対象。日本のマスコミ報道の多くは、ウクライナ側の謀略報道の垂れ流しである。戦争の報道は、どちらも、真実と謀略とが混在しているので、基礎知識と情報分析能力がないと、何が真実かわからないものである。この点、本書の記述は、この地域の近現代史・政治の第一人者の記述で、著者が真実と確認した客観的事実を記載しているようで好感が持てる。
戦争の責任について以下の記述がある。事実をよく知っている著者の客観的記述である。
今回の事態に至るまでには、ゼレンスキー大統領にも大きな責任がある。プーチンはウクライナの右翼勢力やゼレンスキーをナチスと批判した。これに対して、ゼレンスキーは、自分はユダヤ系なのでナチスではないと、全く頓珍漢な反論をしたが、日本のマスコミは、ゼレンスキーの言を無批判に伝えたことがある。映画俳優に過ぎないゼレンスキーがウクライナ近現代史知識のない大バカ者なのは仕方ない事であるが、日本のマスコミ人も、ウクライナ史の基本的知識はもってほしいと感じたことがある。
ウクライナは20年5年の「第2ミンスク合意」で、親ロシア派武装勢力が実効支配する地域に「特別の統治体制」を導入するための憲法改正を約束したが、19年に大統領に就任したゼレンスキー氏はその履行を頑なに拒んだ。
プーチン氏は「第2ミンスク合意」に基づいて、ゼレンスキー氏が交渉に応じるならば武力行使することなくロシアの目的を達成できると考えていた。「第2ミンスク合意」ではロシア派武装勢力が実効支配しているドネツク州とルハンスク州に「特別の統治体制」を認める憲法改正をウクライナが行うことが約束されており、OSCE(欧州安全保障協力機構)の監視下で公正かつ民主的な選挙が行われることも定められていたからだ。ウクライナ国家の枠内で高度な自治が確保されれば、この自治地域の同意なくしてウクライナがNATOに加盟できなくなる仕組みを作ることは可能とロシアは考えていたのである。
ロシアによる侵攻以前にも、フランスのマクロン大統領、ドイツのショルツ首相が、ミンスク合意を基礎にロシアとウクライナを仲介しようとした。プーチン氏はミンスク合意による係争解決に同意したが、ゼレンスキー氏は明確な回答をしなかった。ミンスク合意に基づいてウクライナの主権の下で問題を軟着陸させる可能性をなくしたのは、むしろウクライナ政府の方だったのだ。
ウクライナが「ミンスク合意」を履行する意思を持たないと判断したプーチン氏は、「ルガンスク人民共和国」と「ドネツク人民共和国」の両「人民共和国」に住むロシア人を守るために軍事介入を決断したと言える。(P100~102)
本書には、バンデラ主義の一通りの解説があり、プーチンのナチス批判の意味が分かるだろう。なお、OUNについては、中公新書の「物語ウクライナの歴史」にも、多少の説明がある。
ウクライナの民族主義者ステパン・バンデラ(1909~59年)に対する評価だ。バンデラは、1928年にUVO(ウクライナ軍事組織)に加わり、翌29年にOUN(ウクライナ民族主義者組織)に入党した。35年にポーランド内相暗殺事件に関与した容疑で逮捕され、死刑判決を受けたが、終身刑に減刑された。39年に第2次世界大戦が勃発し、ポーランド国家が崩壊すると、ナチス・ドイツ軍によって解放されOUNの幹部に戻った。バンデラやOUNの活動家は反ユダヤ主義者でもあった。本書第三章、第4章は小さな章で、それぞれ、クリミア併合と北方領土問題の説明。
ソ連とロシアでバンデラとその同志はナチス主義者とされている。2014年以降のウクライナ政権はバンデラをウクライナ民族の英雄と位置づけているのだ。
その具体的な例として、2015年1月1日にキエフで開催された奇妙な行事のことを振り返ってみたい。これは、ステパン・バンデラの生誕106年(1909年1月1日に生まれ)を記念する夜間の「たいまつ行進」だった。バンデラは一時期、ナチス・ドイツと提携し、1941年の独ソ戦の直前にウクライナの独立を図ったことがある。バンデラが指揮する軍団が、ドイツ軍の指揮下に入ってソ連軍と戦い、戦争初期にウクライナを支配下に置いたのだ。バンデラの軍団は、ドイツ軍の下に置かれ、無辜のユダヤ人・ロシア人、スロバキア人、チェコ人を虐殺した。
ナチスの特徴は、「約束を守るとは約束していない」と言って合意を平気で反故にしてしまうことだ。ウクライナ独立の約束をナチスは守らず、ウクライナ人を「東方の労働者」としてドイツの鉱山や工場で働かせた。ドイツ軍に占領されたリボブ(ウクライナ語ではリヴィウ)でウクライナ独立を勝手に宣言していたバンデラは、ナチスによって逮捕され、強制収容所に送られてしまった。
戦争末期の44年9月、ドイツによって強制収容所から釈放されたバンデラは、再び反ソ戦争の指揮をとった。戦後は、西ドイツに拠点を置いて反ソ・ウクライナ民族独立運動に従事。59年10月15日、ミュンヘンの自宅周辺でバンデラはKGB(ソ連国家保安委員会・秘密警察)の刺客によって暗殺された。
そうした経緯から、ソ連時代のウクライナでは、バンデラは「ナチスの協力者」「テロリスト」などと嫌悪されていたのだが、ウクライナで民族主義が台頭すると共に「ソ連からの独立を果たした英雄」と評価は一転した。
バンデラの出身地であるウクライナ西部のガリツィア地方に基盤を持つ政党「スボボダ(自由)」は、バンデラの思想と運動形態を継承している。バンデラ主義者と呼ばれる人々が主張するウクライナ民族至上主義、反ユダヤ主義は、国際基準でネオナチに分類される。ナチスが頻繁に行った「たいまつ行進」を、このように「スボボダ」をはじめとするバンデラ主義者が行ったのも、自らがネオナチであることを誇示するためだ。(P115~P118)
本の紹介-女たちのシベリア抑留 ― 2022年12月22日

小柳ちひろ/著『女たちのシベリア抑留』文春文庫 (2022/9)
女性シベリア抑留者を扱ったもの。著者はドキュメントディレクター。本書は2019年に単行本で発行されたものの文庫版。
本書では、中国東北部のジャムス市にあった陸軍病院の看護婦の話が多い。また、朝鮮で日本軍人相手の従軍慰安婦をしていたと思われる村上秋子の話もある。どちらも、しっかり取材をしているようで、この件については好感が持てる。
第一章に、戦争末期に樺太真岡郵便電信局で九人の女性が集団自殺した事件について「自決していなければソ連軍の捕虜となっていたのだろうか」と記している。著書を書くならば少しは勉強したらどうだろうかとあきれた。
真岡郵電局の集団自殺は、電信課12名のうち9名が自殺し3名が生還したものだった。自殺しなかった電信課の3名や郵便課職員・局長は普通に帰国を果たしている。ただし、生還した電信課3名の中には、帰国後「なぜ自殺しなかった」などと責められたものもいたようだ。このことは、文庫本でも書かれているので、普通に勉強意欲があるならば、容易に知ることができるはずだが。著者の不勉強ぶりには呆れる。
シベリア抑留には降伏した日本軍人と犯罪受刑者があった。旧日本軍人には女性兵士はいなかったので、降伏日本軍人に女性がいたことに驚く人もいるかもしれないが、戦時中の軍事郵便を見ると、差出人が女性名のものは珍しくはないので、軍と行動を共にしている女性がいたことはよく知られたことだった。また、厚生労働省が公開しているシベリア抑留死者名簿には女性と思われる名前がある。
本書P135にロシア人研究者の言葉、「ソ連側に女性を抑留するという意図はなかったと思います」が記載されている。この部分を読むと、シベリア抑留に女性が含まれないことが当初の方針だったように感じるが、当時のソ連では女性兵士は珍しいことではないので、戦争俘虜に女性を含めない予定があったとは考えられない。また、日本でもソ連でも、女性犯罪者は普通にあるが、女性は処罰しないとの方針があるとは考えられない。シベリア抑留に、女性を含めるとの明文規定がなかったとしても、女性を含めないとの方針があったとは、考えられないことだ。
本書では、中国東北部のジャムス市にあった陸軍病院の看護婦の話が多い。彼女たちの多くは日本軍人と行動を共にしたのち、シベリア抑留となり、そこで、病院看護婦として勤務し、抑留日本軍人などの看護業務にあたった。帰国は早く、一番船で帰国したものもあった。
このほか、朝鮮で日本軍人相手の従軍慰安婦をしていたと思われる村上秋子の話もある。秋子はソ連占領の朝鮮で反乱組織に加わり拳銃強奪を試みて、服役することとなった。北極圏のマガダンで服役したが、1956年日ソ国交回復の時帰国が許された。しかし、自ら帰国を拒否して現地にとどまり、ロシア人として生涯を終えた。
本の紹介-北方領土のなにが問題? ― 2022年10月17日

黒岩幸子/著『北方領土のなにが問題?』清水書院 (2022/8)
100ページ余りの薄い本。文章は平易で、文字の行間も大きいため、楽に読める。
幕末期の日ロ交渉から最近の返還交渉まで、歴史を追って、北方領土問題を記す。日本に都合の良い主張をする本ではなくて、冷静に事実を記載している点で好感が持てる。薄い本なので、詳しい内容はないが、領土問題を理解するための参考書としては好適だろう。
この地域の歴史は、幕末の日ロ交渉から始まったわけではなく、もっとずっと以前から人々が暮らしていた。そういう視点で北方領土問題を理解したい人は、本書だけでは不足で、この場合は、以下の本が参考になる。
黒岩幸子/著『千島はだれのものか』東洋書店 (2013/12)
本書は7つの章に分かれ、各章の末尾にはレッスンとして課題が出されている。終りの方の章で以下の課題がある。著者は北方四島交流に長い間携わってきたので、日本の主張だけを声高に叫べば解決するという問題ではないことを十分に承知しているのだろう。
以下の2つの問題を、皆さんも考えてください。
(a)北方領土に現在住んでいるロシア人島民になったつもりで,領土問題を考えてみましょう。日本の領土要求をどのように受け止めますか。自分や家族の生活に関してどんな心配が生まれるでしょうか。
(b)北方領土問題の解決案をつくってみましょう。まず北海道根室管内の市民,次に南クリルのロシア人島民が集まっていると想定して,その解決案を説明してみましょう。
本ー日清・日露戦史の真実 ― 2022年09月18日

渡辺延志/著『日清・日露戦史の真実』筑摩書房 (2022/7)
あまり興味のある内容ではなかった。タイトルと表紙写真です。
本の紹介-北海道の歴史〈上〉 ― 2022年06月27日

長沼孝、榎森進、田端宏、他/著『北海道の歴史〈上〉古代・中世・近世編』北海道新聞社(2011/11)
石器時代から明治になるまでの北海道の歴史。詳しい。
クナシリメナシの乱の原因は、ほとんどすべての歴史解説書で、飛騨屋の横暴にあったと記される。しかし、飛騨屋側には、これを否定する「風説」が伝えられている。本書では、この風説に比べ、飛騨屋の横暴説が真実に近そうに見えることは明らかとしている。
鎮撫軍の責任者、番頭の新井田孫三郎が残した記録には、取り調べで聴取した蜂起の理由が次のように記されている(「寛政蝦夷乱取調日記」『日本庶民生活史料集成』第四巻)。
「めなし夷共申口」ー〆粕造りなどで働かされているが手当が少なすぎる(長人で米一俵、たばこ一把。ウタリではたばこ半把、マキリ一丁だけ)。アッケシでは粕〆割合手当があるが(粕はすべて和人に渡すが魚油の半分はアイヌ側の取り分とする)、メナシではない。「自分働」きができないほど暇なく使役されるので、越冬用の食料を準備するのも難しかった。アイヌの女房たちに対する「密夫」がひどく、「ツクナイ」を求めればかえって叩かれたりしている。働きの悪い者は殺してしまうとおどし、子供を背負っているメノコを釜へ投げこみそうにしてみせる、薪で叩かれて死んだ者、無理に飲まされた薬で死んだ者がいた。こんな有様だったのでやむをえずみんなで申し合わせて和人を「討殺」すこととなった。
「くなしり蝦夷共申口」ー「密夫」がひどく、子供を生ませている者もいる。「ツクナイ」を求めるとかえって「非分」な扱いを受けるのであきらめている者が多い。手当は少なくて(長人で米糀三俵、ウタレは一~二俵、メノコはたばこ一~三把とマキリ一丁)、「自分働」のひまがないほど使われている。働きの悪いアイヌは殺してしまい、和人をたくさん連れて来て「シャモ地」(和人地)に変えてしまうと言っていた。支配人からもらった「暇乞の酒」を飲んでクナシリ総長人のサンキチが死んでしまうという事件も起きている。このような有様だったのでやむをえず「シャモ人」を「討殺」することとなった。
「申口」を得るための取り調べはアッケシ長人イコトイ、ノカマッフ長人シヨンコ、クナシリ長人ツキノエが担当していたが、ほかにオサツ長人ネチカネ、シトウケンも立ち会っていた。オサツへは新井田孫三郎の知行所であり、日本語もできるこの町人たちを「間者」のように働かせるために出陣以前から騒動の現地へ派遣して情勢を調べさせていた(「蝦夷騒擾一件取計始末覚」)。 このオサツへアイヌ立ち会いのもとでの「申口」なので、ほぼ正確な記録なのかと思われる。
飛騨屋のアッケシ場所支配人であった伝七も、前掲の「蝦夷人共申口」と同じことを述べていた。理不尽な「密夫」のこと、アッケシで行われている〆粕割合手当がクナシリにはないこと、主なアイヌを殺して和人を移し「シャモ地同様」にするという風聞のあったことなどを、伝七も述べていたのである(前掲「寛政蝦夷乱取調日記」の伝七・吉兵衛申口)。
幕府の「間者」として松前に来ていた青嶋俊蔵も、新井田孫三郎に連れられて騒動の現地から松前まで出て来ていた「夷」に尋ね聞いたことを報告するなかで、「商人共交易方非分」のことや、領主の家来も「威服」ばかりを考え「教化」を心得ていないので自然と反抗的になってしまう、「夷」たちは「商人共不法」がひどいのでやむなく殺害に及んだのであり、「不埒」のことを行ったとは思っておらず、「償ひ」の品を提出することで処分も済むと考えていたらしい、と述べていた(「蝦夷地一件(五)」)。
飛騨屋側には、前掲の「蝦夷共申口」を否定する「風説」が伝えられている。飛騨屋に対して悪意を持っている三右衛門が通辞頭となって新井田孫三郎らと同道、現地で飛騨屋を悪く言うように仕向けたのだという。三右衛門は私欲をはかって飛騨屋から罷免されていたもので、飛騨屋の通辞がアイヌたちと懸け合いを行おうとすると、飛騨屋の者は「蝦夷共へ懸合ひ相成らず」と大いに怒っていたという(「飛騨屋文書」『根室市史』史料編)。この「風説」より「蝦夷共申口」の方が真実に近そうに見えることは、伝七の「申口」などからも明らかであろう。「商人共交易方非分」とか「商人共不法」と指摘されるような方法をとってでも収益を追求しなければならない事情が飛騨屋側にはあったのである。
松前藩への莫大な貸付金の返済のかわりにエトモ、アッケシ、キイタッフ、クナシリ、ソウヤの五場所を請け魚うこととなった飛騨屋であったが、 山請負(伐木業)と同じような経営上の経験を、漁場経営、漁獲物取引を中心とした場所請負について重ねて来ていたわけではなかった。 「未だ仕馴れざる儀二候得共御証文請取商売仕リ候」(馴れないことではあったが、藩と約束をかわして商売することとなった)としていたのである (「飛騨屋武川家文書」のうち寛政元年十一月十九日提出の訴状)。奥地の大場所を請け負うことになって大規模な商売ができるはずのところ、 エトモは大津屋へ、キイタッフは材木屋へ、ソウヤは阿部屋へそれぞれ下請けに出してしまっていたのは資金面や、経営経験上の問題が考えられていたからだと 思われる(河野資料「飛騨屋旧記」のうち「萬覚帳」の抜書)。(P290,P291)