本―日本陸軍の対ソ謀略2017年09月30日

      
田嶋信雄/著『日本陸軍の対ソ謀略:日独防共協定とユーラシア政策』吉川弘文館 (2017/2)
  
非常に専門性の高い内容で、正直言ってあまり興味がなかったのだけれど、読んだことを忘れないようにタイトルだけ買い留めておきます。内容は、戦前の日独防共協定締結への歴史の解明。

ホームページ追加2017年09月22日

日露・日ソ関係 ゆかりの地 ( http://nippon.nation.jp/Naiyou/index.html ) のところに、大津を加えました。
http://nippon.nation.jp/Naiyou/Ohtsu/index.html

大津は大津事件が起こった場所です。大津事件は児島惟謙が有名なので、宇和島にある銅像の写真を加えました。
そのうち、ニコライの切手かコインの写真と、ニコライの墓所の写真を加えます。

本の紹介―樺太に生きたロシア人2017年07月28日

     
セルゲイ・P.フェドルチューク/著、板橋政樹/訳『樺太に生きたロシア人 故郷と国家のはざまで…』 日本ユーラシア協会北海道連合会「サハリン研究会」 (2004/05)
      
 日露戦争・ポーツマス条約で南樺太が日本へ割譲されると、ロシア人の多くは本国へ帰国した。しかし、数百人のロシア人は帰国することなく南樺太にとどまった。また逆に、ポーツマス条約後に、南樺太に移住したロシア人も存在する。当時、ポーランドはロシアの領土だったため、残留ロシア人の中にはその後ポーランド国籍を得たものも存在する。
 本書は南樺太残留ロシア人(ポーランド人などを含む)の13家族を対象に、彼らがなぜ留まったか、日本領時代をどのように生きたか、第二次大戦後どのように生きたか、このような点を詳述する。
 南樺太残留ロシア人について、ほとんど知られていないので、この問題に関心がある人には有用な著書だ。

本の紹介-日米開戦へのスパイ 東條英機とゾルゲ事件2017年07月26日

      
孫崎享/著『日米開戦へのスパイ 東條英機とゾルゲ事件』祥伝社 (2017/7)
    
 太平洋戦争勃発前の1941年9月から、ドイツ人記者・リヒャルト=ゾルゲ、近衛内閣ブレーン・尾崎秀実らがスパイの疑いで逮捕され、死刑になった。いわゆるゾルゲ事件である。ゾルゲの報告で、日本にはソ連侵攻の意思がないことを知ったスターリンは全兵力をドイツ戦線に振り向けることができたなどと、言われることが多い。
 本書では、このような俗説を検証し、ゾルゲからの情報はソ連にとって重要なものではなかったことを明らかにする。そして、ゾルゲ事件は、東條が近衛内閣を退陣させて権力を奪取するために利用されたものであり、さらに、戦後には反ソ宣伝に利用された事件だったことを明らかにしている。
 ゾルゲ事件は、歴史上有名な事件であるが、スパイは秘密が多いので明らかでないことも多く、事件の解明自体に謀略が含まれることがある。本書は、多数の文献を精査することにより、事件の全貌を解明している。ただし、事実の解明に主眼が置かれた研究書であるため、歴史に詳しくない人や、結論だけが欲しい人には、読むのが大変だろう。

本の紹介―ドキュメント北方領土問題の内幕2017年07月24日

    
若宮啓文/著『ドキュメント北方領土問題の内幕: クレムリン・東京・ワシントン』 (筑摩選書) 筑摩書房 (2016/8/10)
    
1956年、日ソ共同宣言という名前の条約が成立して、日ソ間で国交が回復した。この条約の中で、平和条約締結後に、歯舞・色丹を日本にひき渡すことが決められた。しかし、その後60年以上たっても、いまだに平和条約は締結されていない。
    
 本書は、朝日新聞論説主幹を務めた若宮啓文による、日ソ共同宣言の交渉経緯の解説。
    
 これまでにも、以下のような図書で交渉の経緯が明らかにされていた。    
・松本俊一/著『モスクワにかける虹:日ソ国交回復秘録』
・久保田正明/著『クレムリンへの使節 北方領土交渉1955-1983』
    
 1992年にソ連が崩壊すると、これまで非公開だったソ連側の資料が公開されることにより、交渉の経緯はより明らかになった。本書では、これらの成果も取り入れられているようで、交渉の経緯解明の集大成ともいうべき内容になっている。このため、簡単に理解しようとする人には、ちょっと詳しすぎるだろう。

本の紹介―ラングスドルフ日本紀行2017年07月20日

   
ゲオルク・ハインリヒ・フォン ラングスドルフ/著、山本秀峰/訳『ラングスドルフ日本紀行 クルーゼンシュテルン世界周航・レザーノフ遣日使節随行記 』露蘭堂(2016/08)
  
 幕末の1804年、レザーノフを隊長とする使節団が長崎に来航し、通商を求めた。この時、幕府は、レザーノフ一行を半年間、幽閉状態に置いた末、通商を拒否した。この時の航海や長崎滞在について、以下の書籍が出版されている。
 クルウゼンシュテルン/著、羽仁五郎/訳 『クルウゼンシュテルン日本紀行』 (駿南社) 昭和6年(復刻版が雄松堂書店より出版)
 レザーノフ/著、大島幹雄/訳『日本滞在日記―1804‐1805』(岩波文庫)
  
 ラングスドルフは医師・自然科学者として、この航海に同行した。本書は、ラングスドルフによる日本やアイヌの観察記。長崎の滞在は6か月の長きにわたったが、ほとんど幽閉状態だったため、日本の風俗や自然に対する記述は限られていて残念だ。日本で通商を拒否されたレザーノフ一行はその後、北海道・樺太に立ち寄った。アイヌとは自由に交流したため、アイヌの習俗の記述がある。
 一行のうち、フォボストフらはレザーノフと別れて、1806年10月22日、樺太を襲撃、アイヌたちのロシアへの加勢も手伝って、日本人を追い出した。さらに翌年には択捉島を襲撃した。サンクトペテルブルクへ帰ったフォボストフらは、ラングスドルフの家で会食をした帰りに、川に落ちて死亡した。本書には、この時のいきさつについても書かれている。

本―日露外交 北方領土とインテリジェンス2017年06月14日

 
佐藤優/著 『日露外交 北方領土とインテリジェンス』角川書店 (2017/5)
 
 特に関心を持った本ではないが、読んだことを忘れないために書き留めておきます。
     
 北方領土と日ロ関係を解説した佐藤優の近著。内容は、産経新聞のコラムにこれまで書いた記事の再編集。新聞コラム記事なので、一つのテーマのページ数が少なく、問題に深く立ち入ったものではない。各項目の関連性も乏しいため、北方領土問題や日ロ外交について、多少でも詳しく知りたいと思っている人には、読む価値は少ないだろう。

本の紹介―幕末維新の異文化交流 外圧をよみとく2017年04月18日

    
洞富雄/著『幕末維新の異文化交流 外圧をよみとく』(有隣堂、1995年)
    
 歴史学者・洞富雄、最晩年の著作。実際には、それまでに書いた論文や著書の内容を再編集したものが多いようだ。出版が古く、入手も困難なので、あえて読む必要がある本とは思えない。
    
内容は以下の3章からなる。
    
 第1章では、最初の節で北方探検時期の国際環境を記載し、「間宮林蔵」「最上徳内」「高橋景保」「伊能忠敬」「シーボルト」をとりあげて、日本の北方探検・北方認識史を記述する。各個人の北方関連伝記であるが、個人を通して日本の北方認識の歴史がわかるようになっている。最後に、北方における日ロの進出を記載する。最上徳内や間宮林蔵のところでロシア人との関連にも触れられているなど、日ロ関係の記述もあるが、多くない。
    
 第2章は伊豆下田におけるプチャーチンとの日ロ交渉、ペリーとの日米交渉が書かれている。それなりにページを割いており、詳しい内容になっている。
    
 第3章は、幕末維新と横浜。

本の紹介―シベリア抑留 スターリン独裁下、「収容所群島」の実像2017年04月09日


富田武/著『シベリア抑留 - スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』 (中公新書) 中央公論新社 (2016/12) 


 シベリア抑留関連本の多くは、抑留が大変だった等の旧・日本兵体験談が主流だったが、本書の著者は『シベリア抑留者たちの戦後: 冷戦下の世論と運動 1945-56年 (2013/12)人文書院 』を出版して、抑留体験者が日本に帰国した後に、日本においてどのような状況になったかを明らかにした。
 本書は、シベリア抑留を「ソ連の矯正収容所」「ドイツ兵のシベリア抑留」「日本兵のシベリア抑留」「満州・北朝鮮・サハリン等の外地居留日本人の状況」と広い視点で描いている。 

シベリア抑留された旧・日本兵が苦労した原因は何だったのか。以下の記述が参考になるだろう。
 1945、46年冬に酷寒と飢え、重労働で多数の死者が出た。全抑留期間の死亡者約六万のうち約80%がこの時期だったという。この時期に限定された死者データは存在せず、1947年2月20日時点までのソ連及びモンゴルの収容所での死者3万728人に、満洲野戦収容所での死者1万5986人を加えると全死者6万1855人の75.5五%になる。
 栄養不足=慢性的飢餓状態と過酷な長時聞労働、そして酷寒、不衛生(風と南京虫)により、多くの捕虜が病気に罹った。誰もが栄養失調になったが、その他に赤痢、発疹チフス、回帰熱などの患者が大量に生じ、体力と抵抗力が落ちているため、また満足な治療が受けられないため、衰弱して死亡する者が多数にのぼった。凍傷や作業中の事故による外傷も少なくなかった。  コムソモリスク収容所には、1945年9月に約3000人の栄養失調症に罹った捕虜が入所したが、酷寒到来とともにチフスなどの伝染病が発生した。このため、ある3000人収容の分所は閉鎖され、そこに病院が建てられた。そればかりか、伝染病の一般住民への蔓延を恐れて、市党委員会書記は地方党委員会に、内務人民委員部が日本人捕虜の栄養失調者3000人を市外に即峙退去させるよう、12月中旬に要請している。
 内務人民委員部ハバロフスク地方本部長の同地方党委員会書記宛1946年1月1日付報告メモによれば、同地方全体で収容所開設から11月末までに1119人、12月末までに1446人、合計2565人が収容所、特別病院(重症患者のための、収容所から独立した病院)で死亡した。コムソモリスク収容所の死亡者は1165人、同地方全体の41・5%を占めた。収容所の医院、特別病院の入院患者は、12月1日に7244人、1月1日には1万9人となった。
 治療と衛生・予防の施策がとられたにもかかわらず、特別病院の設立や病院の配置の遅れと不足、収容所の医院や分所の隔離室の設備の悪さ、そして医療スタッフの不足が治療と衛生の効果を低めた。地方の収容所の医院(ラザレート)は、設備不足のため、ホール、コムソモリスク、ラィチハでは大きく遅れて開業し、ハバロフスク市、ブラゴヴェシチェンスク、ニコラエフスク、オハではまったく営業されなかった。
 病院や診療所はむろん、医師、看護婦などの医療スタッフや医薬品、治療設備及び器具が不足していたことは抑留回想記で知られていたが、ハバロフスク地方党委員会書記の先の報告メモでも対策が訴えられた。そこでは、医師不足のため日本人軍医を使わざるを得なかったと指摘している。(P108-P110)
 コムソモリスク収容所は、人員1万5000人を超える有数の収容所だった(分所は14)。開設当初は病弱者が多く、作業出勤率は40%、労働生産性(ノルマ達成率)は55%にすぎなかった。1946年2月、第10分所の契約先トラスト「アムール・スターリ建設」の仕事で、日本人捕虜331人(385人中)が森林伐採に出た。収容されていた高橋大造はこう回想している(ロシア人クズミナの著作で引川されている)。
 「この仕事の経験のない日本人には、非常にきつい労働だった。もう10月半ばには、気温はマイナス20度を下回っていた。体の動きが鈍くなり、食糧不足が栄養失調症を急速に蔓延させた。食事は悪く、一日にパンはわずか300グラムだった。日本人将校の横取りのため、兵卒のパンが200グラムになることもあった。このため捕虜が毎日のように死んでいった」P153
シベリア抑留された旧・日本兵が苦労した原因は次のことがあげられる。
①寒さに慣れていないなか、労働がきつかった
②捕虜を受け入れたソ連の産業が疲弊していて、食料・衣料・医療が不足した
③日本人将校が食料を横取りした

 また、サハリン・千島でソ連支配下で生活した人数について、以下の記述がある。
 1946年2月2日、南樺太及び千島列島はソ連最高ソヴィエト幹部会令で、占領地からソ連の南サハリン州となった。7月1日時点で州の人口は30万5800人、内訳は日本人27万7649、朝鮮人2万7098、アイヌ民族406などであった(千島列島のみに限ると人口は1万9119)。1945年1月時点の人口が39万2007だったので、南樺太からの脱出10万人分だけ減少したことになる。P187

シベリア俘虜関連資料-陸軍准尉・千葉巌の資料(5) 俘虜葉書2017年01月20日

シベリア俘虜だった千葉巌が差し出したはがきの返信。
(見やすいようにコントラストを上げています。)




 上はがきの左上の菱形印はソ連の検閲印。両方のはがきの左下にある金魚鉢を逆さにしたようなのは、日本占領米軍の検閲印で、検閲官番号から検閲は日本人がしたことがわかる。
 両方のはがきにある左中央の丸形印はソ連の郵便消印。

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