シベリア俘虜関連資料-陸軍准尉・千葉巌の資料(5) 俘虜葉書2017年01月20日

シベリア俘虜だった千葉巌が差し出したはがきの返信。
(見やすいようにコントラストを上げています。)




 上はがきの左上の菱形印はソ連の検閲印。両方のはがきの左下にある金魚鉢を逆さにしたようなのは、日本占領米軍の検閲印で、検閲官番号から検閲は日本人がしたことがわかる。
 両方のはがきにある左中央の丸形印はソ連の郵便消印。

シベリア俘虜関連資料-陸軍准尉・千葉巌の資料(4) 俘虜葉書2017年01月19日

 
写真はシベリア俘虜だった千葉巌が差し出したはがきの返信。この葉書を差し出したいきさつについて、以下の説明がある。

『 最初は思想調査に使うのだろうと誰も書かなかったが強制的に書かされたので1回目は仕方なしに「ガンは元気です」とだけ書いて出したが返事が来たので2回目以降は抵抗なく出した。』

 
シベリア俘虜葉書に関しては、以下のような誤った記述が散見される。
 
『国際法によって、捕虜が母国に手紙を出すことは認められている。しかし、ソ連がそれを許したのは・・・すべての捕虜が対象ではなく、ソ連側が「優良労働者」などと認めた一部の捕虜たちであった。(栗原俊雄/著『シベリア抑留』岩波新書 2009.9 P137)』
 
 俘虜葉書の差出については「全員差し出せなかった」「全員差し出した」「一部のものが差し出した」など、収容所によってばらつきがあり、一律に「優良労働者」のみに認められたわけではない。(そういう収容所があったかもしれないが。)
 実際には、俘虜葉書を出したくない人にも「出せ、出せ」とうるさく言ったようだ。葉書を差し出そうとしなかった理由として、千葉は「思想調査に利用されることを嫌がった」としているが、このほかに「俘虜になったことを知られたくない」「特に書くことがない」などの理由もある。
 
 さて、シベリア俘虜葉書は、1946年11月26日、東京港に入港したスモールヌイ号により届けられたおよそ8万通を最初に、その後も、たびたび到着したので、総数は、かなりの数に上ったと思われる。しかし、市場に残っているものは案外少ない。しかも、ほとんどが往復はがきの往信部であって、写真のような返信部はさらに少ない。返信部は抑留者本人が帰国するときに持ち帰ったものなので、少なくて当たり前だが。

シベリア俘虜関連資料-陸軍准尉・千葉巌の資料(3)2017年01月17日

最近、シベリア俘虜関連資料数点をYahooオークションで落札した。
その中に「予防接種証明書」「下車駅調査カード」があった。(写真のもの)
  


シベリア抑留帰還者には、舞鶴から最寄り駅まで乗車券が支給されたのだろう。



シベリア俘虜関連資料-陸軍准尉・千葉巌の資料(2)2017年01月16日

最近、シベリア俘虜関連資料数点をYahooオークションで落札した。
その中に「引揚証明書」があった。(写真のもの)
 

 
厚生労働省の調査結果では、シベリア抑留者数として次の数値が掲載されている。
(1)旧ソ連地域に抑留された者 約 575,000人(うちモンゴル約 14,000人)
(2)現在までに帰還した者 約 473,000人(うちモンゴル約 12,000人)
(3)死亡と認められる者 約  55,000人(うちモンゴル約  2,000人)
(4)病弱のため入ソ後旧満州・北朝鮮に送られた者等 約  47,000人
http://www.mhlw.go.jp/seisaku/2009/11/01.html
 
 
 帰還した者、約473,000人の多くは舞鶴港に上陸したのだから、写真のような書類は相当数が作られたはずなので、珍しいものではなさそうだ。しかし、戦後70年を経過して、いまだに捨てられず残っているものは少なくなっているかもしれない。

シベリア俘虜関連資料2017年01月15日

 
最近、シベリア俘虜関連資料数点をYahooオークションで落札した。
その中に「小隊員の名簿」があった。(写真のもの)
 
「我が小隊所属隊員の名簿。帰国時書類は発見されると没収されるという話だったので3部作成して部下の分隊長と手分けして持ったがこの1部だけ無事帰れた。手製のリックサックの縫目に縫い込んで来たので一部擦れて不鮮明な部分がある。欄内の者は新京で編成当時からの部下で欄外は入ソ後我が小隊に編入された者である。」
 
資料は、千葉巌が作成したもの。
 この名簿のうち、右ページ上段枠内の14名を「厚生労働省・ソ連邦抑留中死亡者名簿50音別索引(http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/50onjun/h03/index.html)」で調べると、最初の「高田五郎」が「1945/11/21 ハバロフスク地方・第18(コムソモリスク)収容地区 第893病院」にて死亡埋葬されていることがわかる。しかし、出身地が東京となっていて住所地の秋田とは異なる。また、「中島亨」が「1947/6/6 ウズベキスタン共和国 アングレン墓地」にて死亡埋葬されている。出身地と住所がともに長崎なので同一人物だろうか。それ以外の人は死亡者名簿に記載がないので、残りの12人は無事帰国を果たしたのだろうか。  
 
この資料は、別に欲しくなかったし、史料価値があるのかどうなのかもわからない。
 
この資料の価値についてわかる人、欲しい人がおられましたら、教えてください。

本の紹介―ロシア極東 秘境を歩く2016年12月27日

 
相原秀起/著『ロシア極東 秘境を歩く』 (2016/11)北海道大学出版会
 
内容は「占守島」「サハリン」「シベリア」の3つに分けられ、すべて著者の取材記。
現状を取材したのではなくて、各地に残る日本人の足跡をたどっている。
 
 「占守島」の部は、太平洋戦争末期の占守島の戦いに思いをはせ、関連遺跡などを取材している。
 「サハリン」の部は、戦前に日ソ境界線に置かれていた国境標石の行方を調査しているが、この部分は著者による別書『知られざる日露国境を歩く ―樺太・択捉・北千島に刻まれた歴史 (ユーラシア・ブックレット200) 』と重複する部分が多い。
 「シベリア」の部は、大黒屋光太夫の足跡を追い、冷凍マンモスの見つかる地に足を踏み入れている。この部分は、内容が散漫に感じた。

本の紹介―北方領土の謎2016年12月19日

 
名越健郎/著『北方領土の謎』 (2016/11)海竜社
 
 ソ連崩壊の時期、北方領土の現状を解説した本がいくつか出版された。この時、北方領土住民は、国家崩壊の混乱で苦境に陥っていたが、その後のロシアの経済発展に伴って、生活インフラは格段に整備された。現在、北方領土の取材映像が、テレビで時々放映されるので、本の解説を読む必要性は少なくなっているためか、北方領土の現状の解説本は少ない。
 
 本書は、北方領土の現状についての解説。近年では、北方領土の映像を見る機会は多いけれど、映像だけではわからない状況もあるので、本書を読むことは無駄ではない。
 本書は拓殖大学教授の名越健郎氏による執筆。北方領土問題の経緯の解説や国際法の解釈などについては、この点を考慮する必要はあるだろう。

本の紹介―外交交渉回想2016年12月18日

 
枝村純郎/著『外交交渉回想 沖縄返還・福田ドクトリン・北方領土』(2016/10)吉川弘文館
 
もと、駐ロシア日本大使による外交交渉の回想録。著者は、ソ連崩壊時期に駐ソ連・駐ロシア大使を務めた。本書の内容は、著者が携わった外交交渉全般であるが、著者の経歴のため、ソ連・ロシア関連が多い。北方領土問題にも、かなりのページ数が割かれていて、北方領土交渉の経緯を知るうえで重要な書籍となっている。しかし、著者は、学者ではなく、日本側交渉当事者であるので、外交文書などは、外務省に都合の良い解釈なるので、その点は一定の注意が必要だ。

本の紹介 - シベリア出兵2016年12月17日

 
麻田雅文/著『シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争』(2016/9)中公新書
 
 シベリア出兵は日本の侵略戦争の失敗だったので、戦前においては、あまり多く語られることはなかった。戦後になってからは、正しく歴史を利愛する上で必須項目とも思えるのだけれど、日本史教科書などでは、あまり行数を割いていない。
 本書は、新書版で出版されたシベリア出兵の通史。尼港事件や北樺太占領についても触れられている。
 新書のため、事前の歴史知識がなくても、容易に読めるように書かれている。

本の紹介―サハリン 残留2016年06月06日

 
玄武岩・他/著 『サハリン 残留』 高文研 (2016/4)
 
 戦前日本領だった南樺太は敗戦によってソ連・ロシアの領土となった。南樺太に居住していた日本人の多くは帰国したが、そのまま残量した人も多い。
 本書では、サハリンに残留した日本人・朝鮮人10家族を取り上げて、どのように生きて来たのかを記している。
 
 個人の問題を詳しく追うことによって、それぞれの事情は分かるのだけれど、サハリン残留問題の全体像が、はっきりわかるというものでもないように思う。

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