本の紹介ーシベリア抑留2018年06月18日


小林昭菜『シベリア抑留 米ソ関係の中での変容』(2018/3)岩波書店

 シベリア抑留と言うと、今から20年ほど前ごろまでは、単に「シベリア抑留はつらかった」「ソ連の対応が悪かった」「日本は悪くない」そんな内容ばかりだった。抑留体験者の多くが故人となった今、シベリア抑留で死亡した原因の一つに、日本人将校の対応の悪さが原因の一つであることが明らかになっており、客観的に史実を解明する研究も増えてきた。しかし、多くは日本の資料が中心だった。本書は、ロシア側資料やGHQ史料も利用することにより、シベリア抑留の実態を明らかにしようとしている。このため、シベリア抑留を知るうえで欠かせない図書と言えるだろう。
 最初に、目次を記載する。
目 次

序章 米ソ関係の中で生まれた悲劇 1
 はじめに 2
 1 「シベリア抑留」とは 6
 2 「シベリア抑留者」は捕虜なのか、抑留者なのか 8
 3 先行研究 10
 4 先行研究における問題点 18
 5 本書の視覚米ロの史料から見えてくるもの 19

第一章 なぜ日本人将兵は抑留されたのか 21
 はじめに 22
 1 極東ソ連軍の満州進攻と関東軍の武装解除 23
 2 日本人捕虜の総数 30
 3 シベリア抑留」の発生理由は関東軍の密約か、北海道北部占領との代替か 36
   関東軍と極東ソ連軍との密約説/代替説/労働力としてのソ連移送
 小括 48

第二章 日本人軍事捕虜の移送と収容所での生活 51
 はじめに 52
 1 ドイツ人軍事捕虜と日本人軍事捕虜の交換 53
 2 日本人軍事捕虜の移送と配置 56
 3 収容所の実態衛生管理と死亡者対策 62
   日本人軍事捕虜の死亡原因/ハバロフスク地方の高死亡率の背景/ソ連中央政府の対策/ソ連政府の対策の効果
 4 冷戦下のプロパガンダ捕虜郵便はがきをめぐる米ソの攻防 79
 小括 87

第三章 冷戦の中の変容 89
 はじめに 90
 1 政治教育の始まり 92
 2「民主運動」の深化 101
 3 強化される政治教育 「反ファシスト委員会」の設置と日本共産党との連携 108
 4 ドイツ人軍事捕虜の「反ファシスト運動」 116
 5 長期抑留者によるもう一つの民主運動 120
   事件発生の兆候-「大堀事件」/作業拒否とハンストの開始/日本人側の要求/ソ連当局の対応/浅原グループとの確執/ハンガーストライキの決行と武力による鎮圧
 小括 131

第四章 米国から見たソ連の日本人軍事捕虜
 はじめに 134
 1 「プロジェクト・スティッチ」の記録から浮かび上がる「ソビエト化」の実態 135
 2 政治教育の最終ステージ ナホトカ港 139
 3 つくられた「ソビエト化」の危機 144
 4 二重スパイから自民党政治家まで 米国による監視対象者たち 151
   スパイとして帰還した日本人軍事捕虜
 5 米占領軍の「執拗」な帰還者調査から見る抑留の実態 160
   収容所内のモラル/逃亡者/抑留中の性生活
 小括 164

終章 167
あとがき 175
注  シベリア抑留関連資料  人名索引

 シベリア抑留前、玉音放送以降も日本とソ連との間では、戦闘が続いていた。日本の一部勢力には、戦争を終結後にソ連の国際法に違反して侵略したとの言説をまき散らす人たちがいる。実態は玉音放送は戦争を正式に終結させるものではなく、大陸命(天皇の陸軍に対する統帥命令)では、戦争継続の命令が出されていたので、8月15日に戦争が終結しないことは当然だった。この点、本書に説明されている。

 東京の大本営から満州の関東軍への命令には大きな問題があった。すでに「ポツダム宣言」を受諾しているにもかかわらず、8月15日午後11時に関東軍が受け取った大陸命第1381号では、積極的な進攻作戦の中止が命じられる一方で、防衛に必要な戦闘を認めていた。この点は、終戦の条件として、大本営陸軍が連合国に一方的に要求した項目の一つである軍隊の段階的武装解除を計算に入れてのことだったかもしれない。大陸命1381号については、日系米国人歴史家の長谷川毅カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授も「当時すべての関東軍は防衛にあたっており、積極的進攻作戦を行っている軍隊はいなかったから、この命令は戦闘の継続を命令したに等しかった」と記している。翌16日付大陸命1382号で再び「日本陸・海軍の全軍に自衛以外の戦闘行為の即時停止」が発令されたが、これについても長谷川は「大陸命1382号は交戦部隊が例外なくソ連軍より激しい攻撃を受けていたため、任務続行という命令に等しかった」とさらに批判を加えている。
 極東ソ連軍総司令部も、日本の「ポツダム宣言」受諾で関東軍への攻撃を一斉停止したわけではなかった。8月16日には各方面軍に対し、日本軍の戦闘行為の中止と武装解除が実行されるまで進攻作戦を継続するよう命じていた。つまり8月16日の時点では、少なくとも日ソ両軍側に武器を置く意思はなかった。そしてサハリンや千島列島へ日ソ戦争は拡大し、日ソ両軍隊の攻撃が続く状況を招いた。
(P25,P26)  注)長谷川毅の説明は「暗闘 P437」


 シベリア抑留では、多くの日本人兵士が死亡した。抑留者60万人のうち、10%にも及ぶ死者となった。死者のうち、初年度が突出しており、これはドイツ兵抑留者の2倍に上っていた。この原因はいくつか挙げられるが、本書でも、日本将校が兵士の食事をピンハネする不平等な食糧分配や、労働作業ノルマの兵卒への上乗せがあったことが記されている。関連する記述を掲載する。

 死亡原因のトップは栄養失調で、約半分を占めていることから、収容所内の指令第1117/0013号の不履行、食糧配給不足、医療衛生措置の欠陥は明らかである。また、その他の死因に肺炎、結核、チフスがあり、免疫力の低下や伝染病の蔓延をソ連が阻止できなかった点も注目しておきたい。それらの原因が栄養不足によるものであった可能性も排除できない。日本人軍事捕虜の死亡率は同時期に抑留されていたドイツ人捕虜の二倍以上であった(最大の死亡原因は日独共に栄養失調)。このことからも一九四六年初頭に日本人軍事捕虜の死亡者数がいかに多かったかが推測できるのである。(P66)

 ソ連移送から数カ月間は、ほとんどの収容所で関東軍の命令指揮系統が残されたままの生活が続いていた。収容所側も労働作業現場までの移動等で日本軍隊の指揮系統を利用することに利便性を見出していた。だが、日本軍隊式の上官絶対服従の日本人軍事捕虜の収容所では、上官が兵士の食事をピンハネする不平等な食糧分配や、労働作業ノルマの兵卒への上乗せが行われたりした。収容所ではこのような日常生活に不満を抱く捕虜が潜在的に多数いた。例えば政治教育の拠点が置かれていたハバロフスク地方では抑留当初から死亡者が続出し、これに歯止めがかからない状態が続き、下級の兵士を虐げる上官は怨嵯の対象となりつつあった。
 ソ連側は、この潜在的不満を利用する「一大イベント」として「民主運動」を計画し、これをハバロフスク地方で決行させた。(P95)

 シベリア抑留者には「俘虜葉書」が交付された。このはがきに関して、「優良労働者ら一部の抑留者に対して手紙を出すことを許可した(栗原俊雄・シベリア抑留最後の帰還者 )」のような誤った記述だある。本書では、ロシア側資料も参照することにより、シベリア俘虜葉書の実態を明らかにしている。少し長いがほぼ全文を引用する。ただし、参考文献や、他の研究の引用は割愛した。

 セルゲイ・クルグロフ内相は一九四六年七月三日、スターリン、モロトフ外相、ベリヤ政治局員宛てに報告書第2878/K号を送付したが、そこには次のように記されている。

 ここ最近の日本人軍事捕虜の問には、民主的感情の著しい成長〔ソ連に友好的な感情を持つ日本人軍事捕虜の増加〕が見受けられる。これと並行して、日本国内ではソ連にいる日本人軍事捕虜の生活環境はひどく耐えがたいものであるとの噂が益々並日及している。ソ連内務省が日本人軍事捕虜とその家族との問での手紙の交換を決定したのは、合理的判断か、である.日本人軍事捕虜には三カ月に一度手紙を送る権利を与え、作業成績の良い捕虜には三カ月に二回その権利を付与する。

 クルグロフの上記報告書からしばらく経った一九四六年七月二七日、ソ連閣僚会議は第9302Pc号令によって正式に日本人軍事捕虜の捕虜郵便を許可した。そして1946年9月6日、ソ連使節団は連合国の日本特派員のための記者会見を東京で開き、初めて南サハリンとクリル諸島にいる日本人の状況と生活条件について明かした。それと同時に、捕虜郵便はがきの開始についても発表した。それは二枚一組が見開きになった赤十字はがきを、一枚は日本人軍事捕虜が、もう一枚は日本からの返信用に利用するとの内容だった。
 これまで、多くの国の捕虜郵便はがきは、使用可能な言語に制約を設けたり、記述する文字をブロック体に限ったり(筆記体は不可)、使用単語数を制限したりすることで、膨大な量のはがきの検閲を効率的に処理しようとしていた。戦時中日本がタイに設けた俘虜収容所でも、連合国軍の捕虜が自由に記述できる内容は最低限に留められていたという。
 ではソ連での捕虜郵便はがきの検閲はどのように行われたのか。ソ連指導部は、捕虜郵便はがきを通じてソ連にとって不利になる「不必要」な情報を外部に漏らしたくなかった。すでに抑留から一年以上が経過し、多くの日本人軍事捕虜が死亡していたが、はがきには死亡者名や死亡者数、衰弱者名や病院名、労働作業内容、そして収容されている収容所の所在地を書くことを固く禁止した。そして、全ての捕虜郵便はがきはウラジオストク郵便局の検閲課を通過し、検閲済みのスタンプを押されたものだけが、家族や縁者のもとに届けられることとなつた。
 クルグロフ内相が1946年10月22日に発令した内務省令第939号「日本、満州、朝鮮半島在住の家族による日本人軍事捕虜との郵便手続きに関する指導の実施について」では、次のように定めていた。

 1 日本、満州、朝鮮半島在住の家族による日本人軍事捕虜との郵便手続きに関する指導を実施すること。
 2 沿海地方ソ連内務省管理局長ミハイル・シシュカリョフ陸軍少将は、二〇日間で内務省業務管理局に日本人軍事捕虜の郵便物受発信を検査する軍事検閲所を設置し、定められた定員数に従ってスタッフを補充すること。
 3 ハバロフスク地方ソ連内務省管理局長イヴァン・ドルギフは、軍事検閲部門の人員補充のため、日本語通訳を一〇人選び、彼らを正規職員として早急に派遣し、沿海地方ソ連内務省の指揮下に入れること。
 4 ソ連内務省企画部長ミトロファン・ポポフ工兵大佐は、一九四六年七月二七日付ソ連閣僚会議令第9302Pc号に従い、1946年第3、第4四半期には二〇トン分の軍事捕虜の二枚つづり〔見開き〕のはがきを製造するため、ソ連内務省軍需品管理総局の配給切符またはパンチカード用紙での資金提供を得ること。ソ連内務省の本計画には一九四七年分の経費も含まれている。
 5 ソ連内務省軍事供給本部経理部ヤコフ・ゴルノスタエフは、ハバロフスク地方軍需品課を経由して、ザバイカル軍管区政治部『日本新聞』編集部の印刷所で規定のはがきサンプル用紙を作り、ソ連内務省軍事捕虜抑留者業務管理総局の作業命令書に従って、それらを適時内務省・内務省管理局へ発送すること。〔後略〕

 この内務省令第九三九号では、さらに三カ月に一回はがきを郵送すること、収容所生活における規律違反や過失があった場合には、はがきを書く権利を三カ月から五カ月間剥奪すること、剥奪の決定権は収容所の管理局長に委任すること、読みやすい字体で書くこと、自分自身の健康状態、生活環境、政治的信条のみ書くことを許可すること等が定められていた。

 1946年10月24日、チェルニショフ内務次官が発令した内務省令第九四三号では、収容所管理局に日本人軍事捕虜の通信員を、ウラジオストク郵便局管理部へ遅くとも一〇月二五日までに派遣するよう命じていた。一〇月二二日のクルグロフ内相による内務省令第九三九号が出て間もなくのことであるから、ウラジオストクから遠くない範囲の収容所、おそらく『日本新聞』社があり積極的な政治活動を行っていたハバロフスク市から、ロシア語が堪能で「民主的」(ソ連に友好的)な日本人スタッフを派遣したと考えられる。そしてチェルニショフ内務次官の1946年0月24日付第九四三号指令は、ウラジオストク郵便局で組織的に管理体制を敷き、派遣する日本人軍事捕虜を適正に教育し、彼らへの工作を強化することも指示していた。
 日本からソ連へ届けられたはがきもウラジオストクで検閲された。ソ連側の検閲担当者として作業に関わった日本人軍事捕虜を帰還後に調査した米空軍の記録が米国立公文書館に残されている。それによると、タイシェト、イルクーツクそしてハバロフスクの収容所に抑留されていたツタオカ・カズヨシは、抑留中にロシア語を習得、ウラジオストクではソ連内務省司令部に雇われ日本から届いた郵便はがきの焼却を命じられた。焼却された郵便はがきは検閲で不合格となったもので、毎回籠一杯はあったという。ツタオカ自身もソ連から一〇通以上のはがきを書いたが一通しか家族のもとに届かず、日本の家族からはツタオカのもとへ三通のはがきが届いたが、家族は数えきれないほどのはがきを送ったと帰還後に明かしたという。
 日本から送られてくる返信用はがきの宛先には、ソ連政府が特別な私書箱を設けたケースがあった。内務省第九七収容所の軍事捕虜はウラジオストク第九七私書箱宛て、第一〇七四特別病院の捕虜はウラジオストク第一〇七四私書箱宛て、ソ連軍事力省第三〇八作業隊の捕虜は、ウラジオストク第三〇八私書箱宛てとすることが定められていた。
 このように、将校用などの特殊な収容所や特別病院にいる日本人軍事捕虜宛ての郵便は私書箱を区別し、日本から送られてくる郵便はがきを別途検閲した。
 米占領軍も、捕虜郵便はがきのやり取りが開始されてすぐ、届いたはがきを検閲していた。例えば、一九四六年一二月に調査した一三通のはがきのうち、ソ連は素晴らしい国/ロシア人は親切と書いた者が六人、「友の会」/『日本新聞』/ソ連の教化について書いた者が四人、日本で新しい国を建設すると書いた者が三人、ソ連で何不自由なく生活していると書いた者が二人、労働が楽しいと書いた者が一人いた。シミズ・コジロウは、『日本新聞』が収容所で配布されていることや「友の会」を創設したこと、タカダ・ピサオは、ソ連で手厚い保護のもと生活し収容所では捕虜のようには扱われていないこと、マツダ・ヒデキチは、ソ連の政治体制は非常に良く、政治運動を始めたが啓蒙活動は難しい課題だと書いていた。
 ところが、米占領軍が注目したのは、はがきに書かれた内容だけではなかった。全てのはがきはウラジオストク郵便局から発送されていたが、返信用はがきの宛先の私書箱は全て異なっていた。米側は、はがきに書かれた私書箱の番号がソ連の収容所番号であると理解し、日本人軍事捕虜が配置されている場所を調査、宛名に書かれた日本にいる家族や友人と思われる人物の名や住所をも記録した。ロシア公文書史料には、軍事捕虜に対して収容所を特定できるような記述を禁止したと書かれていたが、収容所番号は1946年12月に帰還が始まった後は帰還者が証言し得ることであり、ソ連当局自身が返信用の宛先に収容所と同じ私書箱番号を設けるという単純で工夫のない方法を用いたことは、米国に対して情報を覆い隠しておきたいソ連にとって大きなミスであったと言えよう。
 そのほか、米占領軍は帰還者を対象にソ連の検閲について調査していた。ハバロフスク第四四収容所にいたウチダ・トシキは、収容所で家族からの黒く塗られた検閲済み郵便はがき三通を受け取ったと証言している。また、レニンスク・クズネツキイ第五〇三収容所で三年間抑留されていたヤマセ・イチロウは、ソ連抑留期間中、一通もはがきが届かなかったこと、自身が送ったはがきは一九四八年に帰還した後、六カ月経ってから届いたことを証言している。
 作業中に肩甲骨を負傷しマンゾフカに抑留されていたアキタ・セイジは、二通のはがきを日本へ送り、二通の返信を日本から受け取ったと証言している。はがきには、「みな健康であり、近く会えるのを楽しみにしている」といった内容が数行書かれていただけであり、いずれも検閲の跡はなかったという。
 日本外務省の調査記録によると、一九四六年から一九五〇年九月までに日本へ到着した日本人軍事捕虜からの郵便はがきは、合計115万3968通とされている。『読売新聞』は一九四六年一二月三日、ソ連からはがき八万通が届いたと報じ解郵便はがきの到着数が最も多かったのは一九四七年で、4月10日付24万4563通、5月7日付2万4400通、6月12日付1万通、7月3日付1万6000通が日本へ送られた。
 米占領軍は、当時日本国民を監視下に置き、その思想と情報を統制し、情報を収集するために郵便物の検閲を行っていた。中でもソ連から送られてくる郵便はがきは、ソ連が米国による対日占領政策をどのように説明しているのか、ソ連による思想教育がどの程度軍事捕虜に定着しているのか、反米親ソ勢力の活動家は誰なのか、といった情報をもたらすものであった。従って、郵便はがきでソ連を賛美し、日本の状況を否定的に述べたり、ソ連の政治教育に活発に参加する「アクチブ」であると推測されるような内容を書いたりした人物は、要注意リストに加えられていたことは想像に難くない。日本人軍事捕虜の郵便はがきの情報が米国の占領政策にどのように活用されたのかは今後詳しく研究されるべきだが、米空軍の調査9において、ソ連からの帰還者に対し、徹底して郵便はがきの検閲の有無やはがきの実際の送受信数を調査していたことは米国の警戒感の表れと指摘できよう。
P81-P87

本の紹介ー対日工作の回想2018年06月17日

 
イワン コワレンコ/著『対日工作の回想』加藤昭/監、清田彰/訳 (1996/11)文藝春秋

久しぶりの記載になってしまった。
浅原正基の本の次は、コワレンコの本だろう。

 太平洋戦争で、日本は敗北すると、ソ連との間ではジャリコーボ村で極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥と秦彦三郎関東軍総参謀長との間で、停戦協定が締結された。交渉と言うより、勝者が敗者に指示を出すと言った会談だった。この会談に通訳として参加したのが、本書の著者のイワン・コワレンコである。瀬島隆三もこの会談に立ち会っている。
 コワレンコは、終戦後はシベリア抑留日本人への共産主義化活動に携わり、浅原正基等とともに「日本新聞」を作成した。また、対日工作にも深く関与している。

 コワレンコが真実を余すところなく証言したのならば、日本には立場がなくなる人がいるはずだ。このため、コワレンコの証言が、彼が携わった対日工作のすべてと考えることはできず、真実の多くは闇に包まれているのかもしれない。しかし、それでも、本書の証言はソ連と日本の関係を知る上で決定的に重要である。
 本書の前半は、ジャリコーボ会談やシベリア抑留の話。後半は、対日工作の話として、日本共産党・社会党左派・自民党・民間団体とソ連との関連について記している。

 シベリア抑留では抑留初年の死亡率が高かった。この時期、ソ連国内は戦争で疲弊していた多摩、十分な食料が行き渡らなかったことが大きな原因だった。しかし、ドイツ兵捕虜に比べても死亡率が2倍ほど高かった。なぜ、これほどまで、日本兵の死亡率が高かったのか、その原因について著者は関東軍将校の責任を第一に挙げている。

 関東軍は捕虜になってからもほとんど一年半の間、旧天皇制軍隊の服従関係と従来どおりの軍規をそのまま残していた。その結果、将校は兵隊に下着の洗濯をさせたり、長靴を磨かせたり、炊事場へ食事を取りに行かせたりした。・・・しかし将校たちの最大の犯罪は、兵士の食糧のピンはねであった。兵隊に支給されるべき食料品のうち最良の部分が、将校たちの、より高い要求を満たすのに使われ、兵士には黒パン、おかゆ、薄いスープしか残らない状態だったのだ。その結果兵士大衆は、しょっちゅう腹をすかせ、体力が減退し、いろいろの病気にかかりやすくなってゆくのだった。死亡率も高かった。私は「日本新聞」の編集責任者として、将校による食糧のピンはねにすぐ気付き、再三、内務省(ベリアの管轄省)所属の軍人捕虜・抑留者問題総管理局に対して、将校を兵士から引き離すことを提唱した。しかし、総管理局の官僚たちは、旧日本軍の操典によって軍人捕虜の間に保たれていた苛酷な規律に大満悦であった。彼らは、この体制が崩れると収容所内の規律と秩序が乱れ、兵士の不服従と収容所全体のアナーキズムを招きはせぬかと恐れていたのであろう。(P54)
 死亡率を高めた事情を調べてみると、厳しい寒さのほかに、兵士の配給食糧を将校たちが横領していたことが、第一の原因として浮かび上がってくる。・・・日本の兵士たちが一番こぼしていたのは、兵士に対する将校の横暴、将校たちによる給食ジェノサイドすなわち食糧ピンハネによる大量餓死者の発生への恐れであった(P92)

 日本軍将校による兵の管理は一年半後には終了し、その結果兵士の死亡率は低下した。

 約一年半後、軍隊のすべての階級が廃止され、その結果兵隊の食事の量と質は目立って改善された。(P57)

 シベリア抑留された日本兵の初年度死亡率が高かった要因の一つに、日本軍将校の管理に原因があったことは確かだが、捕虜の管理の第一義的な責任はソ連側にあるのだから捕虜の死亡に対するソ連の責任は免れない。当時のソ連当局には、日本の軍隊がビンタで成り立っていたことや、日本人将校は日本兵から食料を奪い取って平気で死なせることが理解できなかったのだろう。
 また、シベリア抑留日本兵の食料不測の原因に関連して興味深い記述がある。

 ワシレフスキー元帥は、多くの日本軍守備隊で、燃料、食糧、衣類の倉庫が炎上していることを取り上げ、だれが火をつけているのか知らないが、倉庫が燃えることによって、軍人捕虜への物資供給に支障をきたすことになるから、留意してほしいと述べた。ソ連軍総司令官は、あらためて次のように言明した。
「高級将校はみな二ヵ月分の食糧の予備と間近い冬に備えて防寒用品を携帯してもらいたい。二ヵ月後には全関東軍がハバロフスク経由で復員するのだから、衣食のストックを携帯する必要はないといううわさが日本軍の中で広まっているようですので、こんなうわさをただちに止めさせるよう、日本の将軍その他権威ある人たちと真剣に話し合ってもらいたいのです。捕虜の取り扱いをどうするかまだ決まっていません。というのはまだ外交官がこの仕事に着手していないからです。国際諸条件にもとつく軍人捕虜の処遇を含めて、多くの問題が外交ルートを通じて処理されることになっています。」
 秦中将は、日本の軍人の間にそういううわさが広まっていると聞いて驚き、ワシレフスキー元帥閣下が言われたことをすべて、最高指揮官らに伝えると約束した。 (P33)

 日本軍が証拠書類を焼却して隠滅したことはよく知られているが、食料・衣料を含む軍事物資も焼却している。ソ連軍はこのような日本軍の悪質性を理解していなかったのだろう。ドイツ兵はソ連領内で捕虜となったのに対して、満州を支配していた関東軍兵士には、食料や衣料の備蓄も多かったと思われるが、有効利用されなかったのは残念だ。


 シベリア抑留関係以外にも、日本共産党との関係など興味ある記述が多い。北方領土問題関連として、田中角栄との立花氏が記載されている。

 田中は歩きながら話し始めた。
 「モスクワでは合意に達しえたはずですが」
 何がじゃまになったのですかと私はちょっと意地悪く尋ねた。「もうああいう機会はないですよ。歴史的チャンスを逃しましたね」
 「そうです。私がこの前お会いした時のあなたの警告をまじめに受け止あなかったからです。モスクワのロシア人より、アメリカ人の方を心配していましたからね。もっとも近い同僚たちと意見調整したプランが私の手もとにまだなかったのですよ」
 「どんなプランですか。秘密でなければ話してください。どうせ列車はもう出てしまったのですから」と私は若干皮肉をこめて言った。
 「簡単に言うと次のような計画です。南クリル諸島の主権はソ連に残りますが、ソ連はいわば賃貸借権にもとついて、向こう二五-三〇年間、ソビエトの漁業者と対等の立場で、ソ連領海の四島周辺での日本の漁業者の操業を許可する、というものです。つまりジョイント・ベンチャーのようなものです。漁獲割当量、漁獲高の配分、双方の物質的負担は後に合意することができます。割引価格で支払いをさらに増やすという条件で、漁獲割当量全体の六〇%を日本側にもらえるなら、この計画は必ず成功したでしょう。日本には魚が必要であり、ソ連には主権とそして魚も必要です。これらの島を日本に引き渡せば、そこに米軍基地を作らせることになるという貴国指導者たちの認識は正しい。ソ連がこれに応じられないのは私にはよく分かります」
 「どうしてあなたは日本の通訳を介しないで、ソ連代表団長に直接それを話さなかったのですか? 私たちはそれをソ連の提言のようにして外交ルートやマスコミを通じて推進することができたはずです。つまりソ連と日本で世論を盛り上げることができたと思います」
 「勇気が足りなかった。ソ連側は私のアイディアを退けるだろうし、アメリカは非難するだろうと思ったのです。もう少し後で、頃合をはかってこのプランに立ち返ろうと思っていたんだが、そうした機会に恵まれず、私自身起訴され、二億円の保釈金を積んで釈放されるような始末だ。私の活動はこのようなみじめな結果に終わった。列島改造計画は葬り去られてしまった。日本人の貧欲さと子どものような単純さのせいでこうなったのです。一見何の危険もないような航空機会社『ロッキード』が、巧みにカムフラージュされたCIAの組織だなどとだれが考えることができたでしょうか」(P201-P202)

本の紹介ー苦悩のなかをゆく2018年05月27日

     
浅原正基/著『苦悩のなかをゆく―私のシベリア抑留記断章』朝日新聞社 (1991/12)
    
 シベリア抑留者は、初年度は将校たちによって管理された。この時期には、将校に管理された兵に多数の死者が生じている。2年目以降になると、捕虜に対して、ソ連は共産主義教育をするようになった。そして、共産主義者になった捕虜が、他の捕虜を管理するようになっていった。日本人将校が管理していた時期は、日本兵の死者が多発していたが、2年目以降になると死亡も減っていった。しかし、将校にとっては、逆に管理されいじめられる側になった。
    
 著者の浅原正基は東大在学時代に共産主義運動で逮捕された人で、シベリア抑留初期の段階で、対日工作将校イワン・コワレンコに従って、シベリア抑留日本人向けの共産主義教育を行うための日本新聞の作成に携わった。なお、イワン・コワレンコは関東軍の降伏に際して通訳をした人物。 
 浅原正基は抑留者でありながら、ソ連側の人間としてふるまった。しかし、抑留中にスパイ容疑で逮捕され、その後は受刑者として懲役刑に服することになった。1956年に日ソ共同宣言が成立して帰国した。
     
 本書は最初の1/3が浅原正基とイワン・コワレンコとの対談。残りの2/3が浅原正基の生い立ち・軍務・シベリア抑留のようす・有罪判決とシベリア受刑・帰国後の生活。

本の紹介ーシベリア抑留最後の帰還者2018年04月18日

    
栗原俊雄/著『シベリア抑留最後の帰還者 家族をつないだ52通のハガキ』 KADOKAWA (2018/1)
    
 シベリア抑留には「戦争捕虜」と「犯罪受刑者」の2種類があった。このうち戦争捕虜は昭和25年春までに生存者全員が帰還している。犯罪受刑者は昭和31年の日ソ共同宣言によって、全員が帰国することが合意された。
 本書は犯罪受刑者だった佐藤健雄がシベリア抑留中に往復した葉書を取り上げて、佐藤の抑留体験を著している。ただし、取り上げられた葉書は少ない。
    
 シベリア抑留と言うと、今から20年ほど前ごろまでは、単に「シベリア抑留はつらかった」「ソ連の対応が悪かった」「日本は悪くない」そんな内容ばかりだった。抑留体験者の多くが故人となった今、シベリア抑留で死亡した原因の一つに、日本人将校の対応の悪さが原因の一つであることが明らかになっている。本書も、そのような視点が少し書かれているので、昔のような苦労話本とは一線を画する。
    
 佐藤健雄は戦争捕虜ではなくて犯罪受刑者だったので、ソ連の待遇もおのずから異なっていた。本書にはその点の記述がなく、戦争捕虜の扱い一般に対する問題と受刑者の問題とが不明確だ。
 本書で取り上げられたシベリア俘虜郵便はがきは少ないが、シベリア俘虜郵便についても誤った記述が多い。俘虜葉書が国際法上認められているのは戦争捕虜に対してであり、犯罪受刑者に認められているわけではない。このため、佐藤健雄が俘虜葉書を出せても出せなくても、国際法は関係ない。どうも、この点を著者は誤解しているようだ。また、俘虜葉書が認められているからと言って、現実に郵便路線がなければ送達することはできない。日本がGHQに占領された当初、GHQは日本人の外国郵便を禁止していた。ソ連から俘虜葉書が届くようになったのは、日本の外国郵便再開後のことだった。本書では、日本の外国郵便が禁止されていた時期に、俘虜葉書が差し出せなった点をソ連の責任であるかのように書いているが、占領期の郵便事情の知識が乏しいのではないだろうか。
 また、P136には「優良労働者ら一部の抑留者に対して手紙を出すことを許可した」等と、いい加減なことが書かれている。このような抑留地があったかもしれないが、ことは、そう単純ではない。草地貞吾の本には、無理やり書かせようとしたことが記されている。
    
 ところで、最初の方のページに1通だけ俘虜葉書の表面の写真がある。これには、三角マークの検閲印があるので、KGBの管轄にあったことは明らかだ。戦争捕虜の多くは国軍の管轄だったので、ひし形か長方形の検閲印が押されている。52通のはがきがあるならば、その点も検討してほしかった。
    
 カバー裏側に「ソ連は国際法違反である抑留の実態を知られぬために、文書の持ち出しを固く禁じていた」と書かれている。近年、シベリア俘虜葉書の返信部も、結構市場に出回っており、それほど珍しいものではない。これから帰国して家族に会う人が、あたりさわりのない内容の葉書を持ち帰る動機も乏しいので、返信部が少ないのは言うまでもないことだが。著者が言うように、「文書の持ち出しを固く禁じていた」と言うにしては、市場に出回っている返信部が多い。もし、著者がきちんと取材した結果、本書を著したのならば、どのようにして持ち帰ったのかも書けばいいのに。

大学入試センター試験日本史Bー樺太国境標石2018年01月14日

 
 日露戦争の結果、南樺太が日本に割譲されると、樺太中央部の北緯50度線が日露の国境になり、日本は4個の標石を設置した。4個には、それぞれ天第一号から天第四号と刻まれていた。
 2018年1月の大学入試センター試験日本史Bは樺太国境標石に関する設問だ。現在、根室市歴史と自然の資料館に展示されている「天第二号」の国境標石の写真をもとに、これが樺太とのロシア国境に置かれたものであることを問うもの。樺太か朝鮮かの2択で、石碑の設置が1906年であるとのヒントがあるので易しかったと思う。
 
樺太国境標石は以下を参照ください。
http://nippon.nation.jp/Naiyou/KarafutoKokkyou/index.htm

本―ロシア漂流民・ソウザとゴンザの謎2017年12月14日

 
瀬藤祝/著『ロシア漂流民・ソウザとゴンザの謎 サンクトペテルブルクの幻影』新読書社 (2004/04)
 
 ソウザとゴンザは、享保13年(1728年)、ロシアに漂流した薩摩の青年。乗り組んでいた薩摩藩の船が嵐のため漂流した末、カムチャツカ半島に流れ着いた。二人以外は原住民に殺害されたり病死したりしたが、生き残った二人は首都サンクトペテルブルグに送られ、そこで日本語教師となる。ソウザとゴンザの死後もロシアの日本語学校は続いた。しかし、ソウザ・ゴンザの日本語は、鹿児島の庶民の言葉だったため、日本語学校で学んだロシア人の日本語は江戸の武士には通じず、その後の外交交渉等の役に立たなかった。
 
 本書はソウザとゴンザに関連した歴史書ではなく、史実らしきをもとにした物語を、お芝居風に描いたもの。

本―日本陸軍の対ソ謀略2017年09月30日

      
田嶋信雄/著『日本陸軍の対ソ謀略:日独防共協定とユーラシア政策』吉川弘文館 (2017/2)
  
非常に専門性の高い内容で、正直言ってあまり興味がなかったのだけれど、読んだことを忘れないようにタイトルだけ買い留めておきます。内容は、戦前の日独防共協定締結への歴史の解明。

ホームページ追加2017年09月22日

日露・日ソ関係 ゆかりの地 ( http://nippon.nation.jp/Naiyou/index.html ) のところに、大津を加えました。
http://nippon.nation.jp/Naiyou/Ohtsu/index.html

大津は大津事件が起こった場所です。大津事件は児島惟謙が有名なので、宇和島にある銅像の写真を加えました。
そのうち、ニコライの切手かコインの写真と、ニコライの墓所の写真を加えます。

本の紹介―樺太に生きたロシア人2017年07月28日

     
セルゲイ・P.フェドルチューク/著、板橋政樹/訳『樺太に生きたロシア人 故郷と国家のはざまで…』 日本ユーラシア協会北海道連合会「サハリン研究会」 (2004/05)
      
 日露戦争・ポーツマス条約で南樺太が日本へ割譲されると、ロシア人の多くは本国へ帰国した。しかし、数百人のロシア人は帰国することなく南樺太にとどまった。また逆に、ポーツマス条約後に、南樺太に移住したロシア人も存在する。当時、ポーランドはロシアの領土だったため、残留ロシア人の中にはその後ポーランド国籍を得たものも存在する。
 本書は南樺太残留ロシア人(ポーランド人などを含む)の13家族を対象に、彼らがなぜ留まったか、日本領時代をどのように生きたか、第二次大戦後どのように生きたか、このような点を詳述する。
 南樺太残留ロシア人について、ほとんど知られていないので、この問題に関心がある人には有用な著書だ。

本の紹介-日米開戦へのスパイ 東條英機とゾルゲ事件2017年07月26日

      
孫崎享/著『日米開戦へのスパイ 東條英機とゾルゲ事件』祥伝社 (2017/7)
    
 太平洋戦争勃発前の1941年9月から、ドイツ人記者・リヒャルト=ゾルゲ、近衛内閣ブレーン・尾崎秀実らがスパイの疑いで逮捕され、死刑になった。いわゆるゾルゲ事件である。ゾルゲの報告で、日本にはソ連侵攻の意思がないことを知ったスターリンは全兵力をドイツ戦線に振り向けることができたなどと、言われることが多い。
 本書では、このような俗説を検証し、ゾルゲからの情報はソ連にとって重要なものではなかったことを明らかにする。そして、ゾルゲ事件は、東條が近衛内閣を退陣させて権力を奪取するために利用されたものであり、さらに、戦後には反ソ宣伝に利用された事件だったことを明らかにしている。
 ゾルゲ事件は、歴史上有名な事件であるが、スパイは秘密が多いので明らかでないことも多く、事件の解明自体に謀略が含まれることがある。本書は、多数の文献を精査することにより、事件の全貌を解明している。ただし、事実の解明に主眼が置かれた研究書であるため、歴史に詳しくない人や、結論だけが欲しい人には、読むのが大変だろう。

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