本の紹介-熱源2020年12月07日


川越宗一/著『熱源』(2019/8)文藝春秋
 
2019年、直木賞受賞作

樺太アイヌ(対雁アイヌ)・人類学者ピウスツキを中心としたノンフィクション小説。時代区分は、日露戦争前後。

本の紹介-ロマノフ王朝時代の日露交流2020年12月06日

 
東洋文庫・生田美智子/監、牧野元紀/編『ロマノフ王朝時代の日露交流』 勉誠出版 (2020/8)
 
12人による13の論文と、いくつかのコラム。
 
 幕末、日本の漂流民の何名かの者はロシアに到達した。日本に帰還してロシアの情報を伝えたものもある。また、ラクスマン・レザーノフ等の来航もあった。
 本書は、幕末以降、ロシア帝国崩壊までの日露の出会い・交流史。東洋文庫所蔵資料を使ったものが何編かある。

本の紹介-シベリア記2020年11月28日

 
加藤九祚/著『シベリア記 遙かなる旅の原点』 論創社 (2020/8)
 
 著者の故・加藤九祚先生は、国立民族学博物館教授などを務めた、文化人類学者で、日本のシベリア・中央アジア研究の基礎をつくった人。2016年、ウズベキスタンで発掘調査中に倒れ、現地の病院で死去した。シベリア抑留の経験があり、この関係でシベリア研究者となった。
 同名の本が1980年3月、潮出版社から出版されている。本書は、潮出版社本に掲載された論文が中心になっている。
 
 本書の内容は、シベリアと日本の関係が記述の中心になっている。革命前にウラジオストックに進出していた日本人の話や、シベリア出兵の話、それから、著者自身のシベリア抑留体験など。
 
 シベリア出兵の時の日本軍の残虐行為はロシアでは有名な話だが、日本ではあまり知られていないようだ。本書にはこの点について若干触れられている。
 
 例えば、(1918年)九月十九日、野瀬工兵中佐の率いる一個大隊の進駐したブラゴベシチェンスクの状況について石光真清は書いている。石光はこの都市で特務活動に従事していたが、日本兵から暴行されたというロシア人からの訴えが絶えなかった。「早速、事務所の者に調査させると大体において事実間違いなかった。市内各所に同じような事件が起こっており、私に直接訴えて来ぬものはその一部分であって、大部分の被害者は日本軍の報復を恐れて泣寝入りしているのであった」(『誰のために』昭和43年・龍星閣刊、二六〇ぺージ)
 こうした状況は各地における武力衝突ともからんで、しだいに疑心暗鬼と憎悪を増幅し、ニコラエフスク事件(尼港事件)のような数々の不幸な事件が生まれた。兵隊は、「殺さなければ殺される」というような心理状態におちいる。後に『岩波ロシア語辞典」の著者となった八杉貞利は一九二〇年(大正九)沿海州を旅行し、当時の見聞を日記に書き残している。八月十三日、ウスリー鉄道のシマコーフカ駅付近でのこと。日本軍の一少尉が視察にきた某少佐につぎのようなことを説明していた。
 「……目下も列車には常に過激派の密偵あり、列車着すれば第一に降り来り注意する動作にて直に判明する故、常に捕えて斬首その他の方法にて殺しつつあり、而して死骸は常に機関車内にて火葬す……」
 こうして日本の「官」は極東全域にわたる戦略のもとに、いわば「土足」でシベリアに侵入し、数数の悲劇の種子をまいた。そして、ほとんどなにものも得ることなく、一九二二年に撤兵したのである。日本軍の死者約三千、凍傷を含む負傷者はその数倍にのぼり、当時装備や訓練で日本軍に劣っていたシベリアの革命軍側の死傷者は日本側の何倍にものぼったことは言うまでもない。人口の少なかったシベリアのことだけに、その傷痕は深刻であった。この「シベリア出兵」の記憶はシベリアのロシア人の問に長く残り、東部シベリアの各地に当時の戦死者の記念碑が建てられている。(P107,P108)
 
 本書は、著者自身のシベリア抑留体験に多くのページが割かれている。著者は下級将校で、抑留中は肉体労働を行っているが、この点に関して以下の記述があり、労働を拒否すればできたが、それをしなかったことが分かる。
 「反動」と称せられるグループは別にいたのである(その人たちがほんとうの「反動」かどうかは別にして)。彼らの多くは高級将校または警察畑の高官であった人たちで、自分の意志で労働を拒否していた。国際条約によって、将校は労働を拒否すれば拒否できたのだ。「反動」になれるほどの人は、健康であっても労働を拒否できる強い意志をもっていたし、逆にまた労働を拒否する人は「反動」とみなされた。しかしわたしを含む下級将校の多くは労働を拒否しなかった。わたしは、将校のはしくれとして、ときとして「吊るしあげ」の的になることはあったけれども、収容所での「民主運動」に敵意を抱いたことはなかった。(P23)

 著者のシベリア抑留体験では、ショッキングな記述がある。(P192~P200)
 著者ら60人が伐採作業に従事していた時、日本人捕虜三人が脱走した。二人が一人をそそのかして脱走したものであったが、二人は逃亡途中にそそのかした一人を殺害して食料としたことが判明した。同胞を殺害して食料とする日本人は、日本人捕虜の中でも少数だろうが、それにしても、おぞましい事件に著者は遭遇したものだ。

本の紹介-日露戦争とサハリン島2020年11月22日

 
原暉之/編『日露戦争とサハリン島』(2011/10)北海道大学出版会
  
日露戦争期あるいはその後ののサハリンに関する13人の研究論文。
序章  日露戦争期サハリン島史研究の概観と課題 原暉之
第一章 見捨てられた島での戦争  ―協会の人間・人間の境界― 天野尚樹
第二章 開かれた海の富と流刑植民地 ―日露戦争直前のサハリン島漁業― 神長英輔
第三章 先住民の島・サハリン ー樺太アイヌの日露戦争への対処― 田村将人
第四章 二〇世紀ロシア文学におけるサハリン島 ―チェーホフと流刑制度の記憶― 越野剛
第五章 退去か、それとも残留か ―1905年夏、サハリン島民の「選択」― 板橋政樹
第六章 ポーツマスにおけるサハリン ―副次的戦場から講和の中心問題へ― ヤロスラブ・シュラトフ
第七章 日本領樺太の形成 ―属領統治と移民社会― 塩出浩之
第八章 日露戦争後ロシア領サハリンの再定義 ―1905~1909年― 原暉之
第九章 民族学者プロニスワフ・ピウスツキとサハリン島 沢田和彦
第一〇章 ビリチとサハリン島 ―元流刑囚漁業家にとっての日露戦争― 倉田有佳
第一一章 日露戦後の環日本海地域における樺太 ―新潟県実業視察団を通じた考察― 三木理史
第十二章 北海道・樺太地域経済の展開 ―外地性の経済的意義― 白木沢旭児
終章 サハリン/樺太の一九〇五年、夏 ―ローカルとグローバルの狭間で― デイヴィッド・ウルフ(鶴見太郎訳)
 
 日露戦争の時、『捕虜となったロシア将兵にたいして、日本は人道的に対応した』『当時の日本軍は国際法を順守した』と言われることがある。日露戦争は、日本がヨーロッパと戦った最初の戦争なので、外国人記者などに、日本軍は残虐と言われないように、外国人記者の目が光っているところで、日本軍が国際法を順守したことは間違いない。また、松山収容所のように、ロシア人貴族の将校が多く収容されていたところでは、物売りの商人や体売りの日本人女性が群がったことも事実で、こういう人たちは、ロシア人捕虜を丁重に能うかっている。
 しかし、外国人記者の目が届かなかったサハリンでは、日本軍は極めて残虐であり、国際法など眼中になかった。本書第一章をはじめ、いくつかの章で、日露戦争当時サハリンにおける日本軍の残虐行為が記載されている。天野尚樹の一部を記載する。

P48~P52 (天野尚樹)
 ・・・ウラジミロフカ教会の司祭で、名をアレクシー・トロイツキーという。トロイツキーは一九〇四年一月にサハリンにやってきた。妻と三人の子どもがおり、長男のウラジーミルは志願兵として第一支隊に従軍していた。
 トロイツキーによれば、日本軍が進出してきたとき、ウラジミロフカでは村中に白旗が掲げられていた。村の南端には赤十字の建物があったが、日本軍は赤十字旗を引き裂いて足で踏みつけにした。通りで銃弾が飛び交うのをトロイツキーは自宅から眺めていた。家の門が叩かれたので開けてみると、プジンという元看守の兵士が助けを求めてきた。隣の診療所にいくように勧めて送り出すと、プジンは目の前で銃弾を受けて死亡した。トロイツキーはその遺体に白樺の枝を撒いて隠そうとしたが、追いかけてきた二〇人ほどの日本兵に見つかってしまった。彼らは、プジンのポケットから金を抜きとり、トロイツキーに向かって大声を張り上げ、銃床でなぐりつけてきた。叫び声を挙げた長女の胸に日本兵のひとりが銃剣を突きつけると、彼女はそれを払いのけた。そこに一人の将校が現われ、トロイツキーに謝罪した。しかし、将校が立ち去ると、兵たちは妻から指輪を奪いとった。妻は、結婚指輪だけはどうにか隠し通した。家の中に入り込んだ日本兵は懐中時計とベルトを奪い、手ぬぐいを首に巻きつけて出ていった。その後にも別な兵の集団がやってきて、トロイツキーを小突きながら物置をあさり、外套を持ち去っていった。
 あたりも暗くなって家族を寝かしつけたが、トロイツキーは寝ずに起きていた。夜中の二時ごろ、門をたたく音が聞こえたので出ていくと、ライフルをもった日本兵三人と将校が一人入ってきた。将校が、丁寧な身振りでロウソクを所望した。将校はお礼に銀貨を二枚差し出した。トロイツキーが断ると、その将校は、起き出してきた息子に銀貨をあげた。トロイツキーは彼にタバコを勧め、将校は一服すると愛想よくおじぎをして出ていった。二〇分ほどして再び門が叩かれた。二つある門を両方開けてくれと身振りで頼まれたので開けてやると、二〇〇人近い日本兵が入ってきた。彼らは敷地内の畑で夜を明かした。
 ウラジミロフカの男性住民も、一つの敷地に集められて夜を過ごしていた。その数は三〇〇人近かった。北緯五〇度の島の夜は、七月とはいえ本州の二月並みに冷え込む。同時代のロシア人地理学者によれば、七月でも氷点下になることがあり、またひどい湿気は身に沁みるほどで、「シベリアの気候が容赦ないというならば、サハリンはその倍ひどい」という。
 夜が明けると、集められていた住民のうち、役人をはじめ半数が解放された。残る一五〇人は、五人ずつ縄につながれてタイガの森に連れていかれた。そのなかには、マヴラという農婦を母にもつフィリップ(二〇歳)とゲオルギー(一七歳)のゾートフ兄弟、農業を営むミハイル・クレコフ(二〇歳)やフェオクティスト・オトロシチェンコ(五〇歳)らの顔があった。流刑農民に編入されていたゲオルギー・ポギタエフ(三三歳)、やはり流刑農民でダリネエ村から連れてこられたマクシム・ホメンコ(四五歳)も一緒にタイガに向かった。彼らはみな、ウラジミロフカの北三〇キロほどの所にあるベレズニャキ村の教会に登録していた。
 かつてのウラジミロフカ、いまのユジノサハリンスク市の国立サハリン州文書館(二〇二年より国立サハリン州歴史文書館に改称)にはべレズニャキ教会の戸籍簿が残っている。その死亡欄にゾートフら六名の名前を見出すことができる。死亡日時は七月一一日、死因の項にはそろってこう記されている。「日本人によって殺害された」。
 トロイツキーによれば、タイガに連れていかれた約一五〇人の村民は二回に分けて射殺された。死体は浅く即められていたので、地面から足が出ていた。トロイツキーの教会に通っていたゴルブチンスカヤという女性は、二一歳と一九歳の二人の息子を失った。追悼儀礼に参加するといつも、彼女は悲しみのあまり気を失って倒れてしまったという。
 このときの証言は日本側にも存在する。第一三師団野戦砲兵第一九連隊第一大隊第四中隊に所属していた兵士の手帳の七月一一日の項には次の記述がある。鉛筆書きの臨場感を少しでも伝えるため、誤字などはそのままにしておく。

 (ウラジミリストク〔ウラジミロフカ〕)を戦領致、此の戦争にて、敵の、ホリョ、四〇〇余、此のホリヨウは、義男兵、事、正兵の外は、皆、鉄サツ〔銃殺〕致、候、其時私は此れを拝見致候へ共、実に、ゆかいやら、かわいそおやら、目も、あてられぬありさまなり


 また、冒頭に「文明」と墨字で記されている有賀長雄『日露陸戦国際法論』には、ウラジミロフカ戦に参加したという山本なる大尉の報告が収録されている。それによると、侵入した歩兵第四九連隊第二大隊は、武器をとった村の住民数百名に包囲されるもこれを撃退し、一五〇名ほどを捕獲した。彼らには統率する指揮官がなく、また制服も着用していなかったため、義勇兵とも民間人とも区別がつかなかった。ウラジミロフカの「土民」は「囚人」もしくは「流浪人」ばかりであって、仮に義勇兵だったとしても、国際法など知らない、それらと同等の存在である。したがって、彼らにルールを適用する必要などない。このような論理で、住民たちは罪人として扱われ、「取り調べの上百二十名計りを死刑」に処したという。
 ウラジミロフカの住民の犠牲はこれだけにとどまらなかった。村を占領した日本軍は住民の保護を約束したが、それが守られることはなかった。以下、長くなるがトロイツキーの証言を直接聞くことにしよう。

 軍事病院の下働きたちが自分たちをロシアに送還してくれるよう頼んだことがあった。彼らには言質が与えられ、リストに名前が記入されると、ウラジミロフカから一五キロほど離れた、かつてソロキノという集落があった窪地に連行され、向かって右側にあるタイガに連れていかれて撃ち殺された。その数は五六人といわれている(病院の下働きの数はもっと少ないので、離島を希望した他の住民もそこに加えられていたことになる)。同じ場所ではそれからしばらくのちにも、刑務所病院の下働きが二六人射殺された。このとき看守のマルケヴィチ氏も、日本の進軍中に上官の命令で橋に火をつけたからという理由だけで殺害された。日本兵たちは彼をガルキノヴラスコエで絞首刑にしようとしたのだが、どういうわけか執行されず、別な場所で残酷にとどめを刺されたのだった。マルケヴィチ氏は若くて仕事熱心な男で、結婚して日も浅く、二人の子供もいた。聞くところによると、奥さんはいま、実家のあるハバロフスクにいくこともできずにオデッサで暮らしており、ハバロフスクの家には刑務官ブルダコフの母親が住んでいるそうである。五六人が射殺されたときには、准医師のギリモヴィチ老も殺された。彼は、仕事の中身をよく心得ていて、ずいぶん前に刑期も終えて故郷に帰る権利を得ていたのだが、どういうわけか延期されていた。ギリモヴィチは、本当にとても優しい年寄りだった。何が彼らを破滅させたのか。故郷の空気を少しでも吸いたくてロシアに出ていくことを望んだのが罪なのか?のちにこの武勲について兵隊自らが住民たちに語り、撃たないで助けてくれと、どんなふうに命乞いしたかを話して聞かせていた。彼らはいまどこに?確かにタイガのなかだが、ひと所ではない。これは集団銃殺だったが、個別に殺された住民も多数いた。こんなこともあった。通訳がタイガから血まみれになって出てきたので、日本語のよくできるあるロシア人が彼に尋ねた。このロシア人は流刑囚の息子で自由民のアレクセイ・ベカリといった。どうして血だらけなのか?通訳は、拘束された義勇兵一人を殴り殺してきたところで、戦争してきたのだと語った。民間人の犠牲者は全部でおよそ三〇〇人にのぼった。日本人がダリネエ村で二人の民間人を路上で殺し、一週間以上も埋葬を禁じたのはいったいどういうわけなのか。私は憲兵隊に埋葬の許可を頼み、すでにウジのわいた彼らはようやく片づけられた。

 こんな軍隊を本当に文明的と呼べるのか。読者自身で判断してほしい。
 日本軍は、七月一六日にアルツィシェフスキーら南部の主力を降伏させ、同二四日には、北部平定のため、アレクサンドロフスクの北方約一ニキロにある第一アルコヴォに上陸した。リャプノブ率いる北サハリン軍は、さしたる抵抗をすることもなく、七月三一日に主力部隊が降伏した。公式記録によれば、ロシア側の戦死者は将校三名、下士卒八五名の計八八名とされる。しかしこの数は、明らかにその実相を表してはいない。ここには、一般住民の死者が含まれていないだけではない。義勇兵の戦死者も「ロシア人」の死者として数えられてはいない。そして、これらの死者の多輔、司令官ら主力がすでに降伏した後の、占領下星まれた犠牲者なのである。
 大江志乃夫が初めて紹介した、福井県大野郡羽生村(現福井市美山町)出身で、第=二師団歩兵第四九連隊所属の新屋新宅が故郷に宛てた手紙は、一九〇五年八月一五日からその行動が書き起こされている。

 突然に当中隊は特別之任務を授けられ、八月一五日汽船東洋丸に乗込みコルサコフ出帆、一回して西海岸マヲカに一七日無難上陸、二百余名之山賊的の敗残敵きを職滅する目的を以て益々進軍してノタサン川に至り、追路してノタサン川を逆り、検悪なる深山を越え、既にして東に下り、如何なる疲労も厭はず捜索したる結果、三十日正午に至りナイフチ川上流にて件の敵きに衝突して、約三時間激戦の後、彼れ等は進退窮まりて百八十名之者一同に白旗を掲げ降参せり。翌三十一日捕虜残らず銃殺せり。

 このとき、タイガに身を潜めて生き延びることができたアルヒープ・マケエンコフの目撃談によれば、日本兵は、ダイルスキー二等大尉率いる南サハリン軍第四支隊の「ロシア兵を樹木のところに立たせ、銃剣によって手足を釘づけにした」。そして、身動きのとれなくなった捕虜を「残らず銃殺」したのである。
 なぜこのような事態が起こったのか。まず客観的な事情として、戦時下のサハリンが情報の孤島と化していたことが挙げられる。・・・

P327,P328 (倉田有佳)
 実は、ビリチはサハリンの戦場における日本兵の蛮行の目撃者であり、証言者であった。本国への帰還直前の一九〇五年一一月三〇日、ビリチはニコライ主教を訪れ、次のような言葉で説明した。
 当時サハリン島には、外国人記者がいなかったため、誰の前にもヒューマニストぶる必要がなく、日本人はごく自然に本性を現した。多くの平和な住民が何の理由もなくなぐられ、女性は暴行され、また男性と同じように斬られたり銃殺された婦女子もあった。ロシアの囚人の多くが、「この連中は何の役にも立たない」という理由で、集団で銃殺された。気の狂った病人でさえ病院から引きずり出され、銃殺された。また、他の囚人たちは家畜のようにデカストリに連れて行かれ、食料も与えられず放っておかれた。

日本が講和会議開始申請後に樺太占領するに至った経緯について以下の記述がある。
P191,P192 (ヤロスラブ・シュラトフ)
 日本政府は、講和会議における立場をより強化するために、サハリン島を占領する決断を下した。当初、これに関する日本首脳部の意見は分かれていた。横手慎二によると、アメリカ大統領が日露両国政府に対して、戦争を終結し講和を結ぶと正式に勧告した六月九日に、日本の首脳陣は、すでに準備が整っていた樺太占領計画を実施することに前向きな姿勢をみせたが、一二日にこの決定を白紙に戻し、「せっかく得た戦争終結の機会を、この作戦で失ってはならないと考えた」。黒木勇吉によれば、講和会議前に至って桂首相や寺内陸相は「すでに講和の提議に接した以上、火事泥的に類するサガレン出征は、アメリカ大統領に対して如何にや」と消極論に傾
いていたようである。
 ところが、従来からサハリン占領を強く希望していた小村外相をはじめとする外務省と軍部の一部は、本件に対してより積極的な立場をとった。六月一四日、満州軍総参謀長児玉源太郎は大本営に以下のような飛電を送った。

 講和談判が、近き将来において開始せられんとする今日、この談判進行中に処する計画は、すでに策定せられあることを信ずれども、刻下における作戦の方針は、講和談判をしてなるべく速やかに、かつ有利に結了せしむるごとく策定せらるることを要す。換言すれば、絶対的に休戦を拒絶し、彼の痛痒を感ずるところに向かいて勇進し、談判一日を遅延せば、一日だけの要求が重大となるの感を起こさしむるを要す。

 そのためには、「サハリンに兵を進めて、事実上これを占領」する必要があると児玉は主張した。同日、山県参謀総長は児玉に宛てて、サハリン占領、ハルビンおよび露領沿海州方面への作戦を準備するように伝え、同月一八日に大本営は第三師団に「奨攻略作戦」を実施するように命じた。これで・サハリンへの攻撃は不可避となった。
 七月三日、日本政府は高平駐米公使の通知で、ロシア政府が休戦協定の締結を願っていることを知ったが、ロシア側は.この提案を秘密裏にアメリカ大統領から伝えるよう求めていたため、日本側はロシアの意向を無視することを決めた。そして、小村全権代表が講和会議の開催地ポーツマスに向かって出帆した日の前日、七月七日に日本陸軍がサハリンに上陸し、八月までに基本的に全島占領に成功した。このように、ポーツマス講和会議の直
前に、ロシアの領土が日本軍に占領されることになった。

本の紹介-安倍vs.プーチン2020年11月11日


駒木明義/著『安倍vs.プーチン 日ロ交渉はなぜ行き詰まったのか?』筑摩書房 (2020/8)

 著者は2017年まで朝日新聞モスクワ支局長で、帰国後は論説委員。 

 安倍内閣がスタートした時、北方領土問題が安部・プーチンの間で解決するとの期待を持った人がいた。実際、安倍内閣では四島返還論から二島+αに大きく舵を切り、現実的解決が近づいたように見えることもあった。しかし、現実には、何も進展はなかった。
 本書は、安倍内閣における北方領土交渉の詳しい解説。安倍内閣で北方領土問題が解決する状況には、もともとなかったことを明らかにしている。本書も指摘していることだが、北方領土問題が進展したのは橋本・森内閣時代で、当時はソ連・ロシア側にも解決の機運があった。それを台無しにしたのは小泉内閣で、外交戦略のまずさから、これまで積み上げた日ロ関係をなくしてしまった。安倍内閣は小泉内閣以前の方針に戻ろうとしたのだろうが、当時とは国際情勢が変わっていることに対する考慮が欠けた、稚拙な外交だったとも言える。
 本書は、安倍内閣における北方領土外交に批判的である。成果を上げられる客観情勢でないのに、解決を目指すような国民向けジェスチャーをしていたのだから、この点は批判に値するだろう。しかし、アメリカの力を背景として四島返還を求める姿勢が実現する可能性は全く存在しない。そういう意味では、北方領土返還運動は、一貫して国民向けジェスチャーに過ぎなかったので、この点では安倍内閣の問題点ではない。それよりも、これまで、四島返還を求める主張していれば、いつかは4島が返ってくるかのような幻想を与えていたこれまでの方針を転換して、多少は現実を国民に見せた点で、安倍内閣を評価したいと思うのだけれど、本書の著者にはこのような視点はないようだ。

 興味を持った記述が何点かあった。

 P111から「これ見よがしの世論調査」の節に、北方領土住民に対する世論調査の結果が記載されている。
 「全ロシア世論研究センター」の2019/1の調査では、「平和条約の締結との日本との関係発展は、南クリルの島々を日本に引き渡すに値するか」という質問に対する回答は以下のものだった。
   無条件で値する  1%
   どちらかといえば値する  2%
   どちらかといえば値しない  15%
   無条件で値しない  78%
   答えるのは困難    4%
 2018/11の全ロシアを対象とする世論調査は以下のものだった。
   無条件で値する  4%
   どちらかといえば値する  10%
   どちらかといえば値しない  31%
   無条件で値しない  46%
   答えるのは困難    9%
 1998年の朝日新聞の各島ごとの調査は以下のものだった。
   択捉島 渡さない…65% 共同管理…22% まず2島…2% 四島一括…4%
   国後島 渡さない…44% 共同管理…34% まず2島…4% 四島一括…9%
   色丹島 渡さない…28% 共同管理…33% まず2島…30% 四島一括…1%

 P215には、2019年10月27日~11月2日」の日程で実施された「北方領土観光ツアー」について、以下のように記載している。
 『試行は終わったが、本格的な実施は難しそうだ。最大の問題は、前述の通り、日本人が現地に入るための新しい仕組みができないことだ。
 試行の際には、既存の「ビザなし訪問」の枠組みが使われた。つまり、観光とは名ばかりで、実際にはビザなし訪問の拡大版という形式だったわけだ。政府関係者も同行した。商業ベースの観光旅行とはほど遠い状況だった。
 さらにこの先、商業ベースの観光ツアーやゴミ処理、温室栽培などが軌道に乗ったとしても、経済活動の規模としては極めて小さいものしか実現できそうにない。
 安倍が思い描いたような「日本人とロシア人が、島々で共に暮らし、共に働く」ような状況を作り出すことは、現時点では想像もつかない。』

 P224の日米地位協定に対するロシア側の懸念も興味深い内容だ。
 『 日米地位協定は、一九六〇年の日米安全保障条約改定に伴い、米軍による日本の領上の使用や・駐留米軍入、軍属らの法的な取り扱いを定めた日米合意だ。
 「日米地位協定の考え方」は、協定の具体的な運用のために外務省が作成した内部向けの手引き書という位置づけだ。一九七三年に作られ、八三年に増補された。
 外務省は秘密指定していたが、沖縄の地元紙琉球新報が二〇〇四年に内容を特報した。
 その中には、こんな記述がある。
 「『返還後の北方領土には果軍の)施恥堅区域を設けない』との法的義務をあらかじめ日本側が負うようなことをソ連側と約することは、安保条約・地域協定上問題がある」
 北方領土に将来、米軍基地を置かせないことを、日本政府が勝手にソ連に約束することはできないという趣旨が、明確に書かれている。
 ・・・
 日本側はこの後、この文書を改めて分析し、「当時の外務省職員の個人的見解を記したもの」と主張できると判断した。その上で、日本に二島が引き渡されても米軍の施設を置かせることはないという考えを、安倍自身を含む複数のルートでロシア側に伝えた。
 だが、プーチンは納得しなかったようだ。
 その後プーチンが、北方領土に米軍が展開する可能性だけでなく、沖縄の米軍基地や、日本が米国と協力して進めるミサイル防衛(MD)、果ては日米安保体制そのものにまで懸念を表明するようになるのは、・・・見た通りだ。』

 このほか、2019年5月に起きたビザなし交流における維新・丸山穂高議員の乱行についてもP298~222に詳しい。

 日本では、北方領土問題に対して、日本側の主張が一方的に垂れ流されているが、本書P237にはロシア側の理論武装についても一項を取って、説明している。
(参考)駒木明義/著『安倍vs.プーチン 日ロ交渉はなぜ行き詰まったのか?』

ロシアの理論武装(P237~P242)


 これまで見てきたように、ロシアにとっての北方四島の軍事的価値が高まったこと、外交面で中国との連携と協力を最重要視するようになったことは、いずれも北方領土問題で日本と折り合いをつけることを難しくしている。
 さらに、第二次世界大戦での勝利を、ロシア国民の愛国心を高め、政権の求心力を強めるために最大限利用していることも、日本に譲歩しにくい大きな理由だ。
 ただ、これらはいずれもロシアの国内事情にすぎない。日本側から交渉を眺めると「ロシアにはロシアの事情があるのは分かりますが、日本と約束したことは守ってください」と言いたくもなろうというものだ。
 だが、ロシアは、こうした日本の主張に対しても、様々な反論を用意している。
 そうしたロシア側の理論武装、領土問題で日本に譲らないために繰り出す様々な理屈を、ここで一通り確認しておきたい。
 最近のロシアの主張が比較的よくまとまっているのが、二〇一六年二月一六日にロシア外務省か発長した声明だ。
 この声明は、日本外務省幹部がロシアの通信社に説明した口本政府の立場に対する反論という形をとっている。
 この幹部は、「第二次世界大戦の結果はすべて確定してはおらず、ロシアとの問で領土問題を解決する必要がある」と述べていた。これは日本政府の一貫した主張であり、何も不思議なことは言っていない。
 しかしロシア外務省はこれに徹底的に反論を加えた。「第二次世界大戦の結果はすべて確定しており、したがって日本との問に領土問題は存在しない」というのが今のロシア外務省の主張だからだ。
 以下、この声明で述べられているロシア側の論拠を順を追って見ていこう。
 「想起したいのは、一九四五年九月二円に降伏文書に署名することで、日本は自身の敗北を認めただけでなく、第二次世界大戦におけるソ連など連合国に対する行動の全責任を負ったということである」
 一九四五年九月二日、東京湾に停泊していた米国の戦艦ミズーリの船上で降伏文書への署名式が行われた。日本側からは外相重光葵、連合国側からは連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーらが署名した。無条件降伏をしたのだから、ソ連を含む連合国が突きつけた条件はすべてのむのが日本に課せられた義務だ、というのがソ連の後継国家としてのロシアの主張の根幹をなしている。
 降伏文書は、連合国が発したポツダム宣言を日本が受諾することを主な内容としている。米国、英国、中国が一九四五年七月二六日に発表し、後にソ連も加わったポツダム宣言は、その第八項で、戦後の日本の領土について、本州、北海道、九州、四国以外は「我等ノ決定スル諸小島二極限セラルヘシ」と規定している。つまり、日本の領至の範囲を決めるのはソ連など連合国であって、日本に決定権はないというのが、ロシアの主張ということになる。
 ロシア外務省の声明に示された論拠の二点目は次のようなものだ。
 「戦争の結果とその領土への反映は、一九五一年九月八日のサンフランシスコ平和条約ではっきりと確定されている。その第二条によると、日本は(それまで日本領だった)サハリン南部と千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄した。なお、ソ連がサンフランシスコ平和条約に署名しなかったことは、日本が条約上負っている義務に何の影響も及ぼさない」
 日本はサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄したのだから、その南部である北方四島についても要求する権利を持っていない、というのがロシアの主張だ。
 現在の日本は、放棄した「千島列島」には北方四島は含まれていないとの立場をとっている。たた、この主張が大きな弱点を抱えていることは否定しようがない事実だ。この点については、第五章で詳しく述べる。
 ロシア外務省の主張の三点目。
「両国の外交関係を回復させた」九五六年のソ日共同宣言は、日本政府が戦後生じた現実を認めることに全面的に立脚している。まさにそのおかげで、日本はソ連の同意を得て国連に加盟し、国際法上の主体となることができたのだ。よく知られているように、国連に加盟することは、国連憲章を全面的に承認することを前提としており、その中には、戦争期間に行われた連合国のすべての行動が合法であることを確認した第一〇七条が含まれている」
 日本はソ連のおかげで国連に加盟できた。そのときに、国連憲章すべてを認めたはずだ。第一〇七条も例外ではないこれがロシアの主張である。
 国連憲章第一〇七条は、第二次世界大戦で連合国と戦った日本やドイツなど枢軸国を対象とする「旧敵国条項」の一つ。日本語訳は以下のような内容となっている。
 「この憲章のいかなる規定も、第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない」
 非常に言葉が取りにくいが、「連合国が日本を含む旧敵国に対してとった措置は仮にそれが国連憲章の他の条項の趣旨に反するものであっても、無効にはならない」という意味合いだ。
 ロシア外相のラブロフは、二〇一五年五月のインタビューで、この条項についてもっと分かりやすく端的な解釈を示している。
 「国連憲章第一〇七条には、連合国が行ったことはすべて神聖であり、不可侵であるということが書かれている。違う言葉が使われているが、法的にはそういう意味だ」
 これは、日本からの一切の反論をはねつけることができる、無敵の論理だ。
 ソ連は当時有効だった日ソ中立条約を一方的に破って対日参戦し、日本の領土を法的根拠もなく占拠したというのが日本政府の主張だが、ラブロフの論理に立てば、それも免責されるということになる。
 国連大使を長く務めたラブロフは、国連憲章第一〇七条がとりわけ好みのようで、繰り返し日本側に提起してきた。二〇一五年のインタビューでも勝ち誇ったように言っている。
「我々が彼ら(日本側)を国連憲章に引き戻すと、彼らはなにも言えなくなってしまう。そこで、我々はこう言うことができる。「日本は第二次世界大戦の結果に疑義を差し挟む唯一の国だ。他にそんなことをする国はどこにもない』と」
 以上、ロシア外務省が繰り出す主な論拠は「日本のポツダム宣言受諾と降伏文占への署名」「サンフランシスコ平和条約による千島列島放棄」「国連憲章」の三つということができる。
 このほか、ロシアは一九四五年二月に米英両国がソ連の対日参戦と引き換えに千島列島を引き渡すことを約束した「ヤルタ協定」に言及することもある。
 また、ラブロフは二〇一六年のインタビューで、一九五六年の国交回復時に日ソ双方が戦争の結果生じた請求権を互いに放棄したことを論拠に、領土への請求権も存在しないという解釈を示した。
 これらロシア側が持ち出す論拠に対して、それぞれ反論を加えることはもちろん可能だ。
 例えばポツダム宣言について言えば、確かに戦後の日本の領土を決めるのは連合国とされているが、ソ連一国だけの手に委ねられているわけではない。旧敵国条項については、一九九一年の日ソ共同声明が「もはやその意味を失っていることを確認」している、等々。
 しかし、ロシアと論戦を続けたところで水掛け論になるのがせいぜいで、理屈でねじ伏せて非を認めさせることは不可能だということも、また無視することができない現実だと言えるだろう。

本―日ソ戦争 1945年8月2020年09月25日

 
富田武/著『日ソ戦争 1945年8月 棄てられた兵士と居留民』みすず書房 (2020/7)
 
 太平洋戦争末期、8月9日に、ソ連は対日参戦した。本書は、この時の戦争のようすを解明した研究書。著者はシベリア抑留研究書を多数執筆しているが、本書にはシベリア抑留の話は少ない。
 本書は3つの章に分かれる。
 
第一章「戦争前史 ヤルタからポツダムまで」
 この章は全体の1/5程度で、ヤルタ会談以降ポツダム会談までの時期の主に政治的動きを解説している。
 
第二章「日ソ八月戦争」
 第一節ではソ連対日参戦以降の、満州各所及び北朝鮮における戦闘の模様を日本側・ソ連側資料に基づいて解明。この部分が、最もページ数が多く本書のメインになっている。
 第二節は戦闘中の混乱した状況において発生した、ソ連軍や地域住民により与えられた日本人民間人の犠牲の話。
 第三節は捕虜の移送について
 
第三章「戦後の重い遺産」
 この章は全体の1/8程度で民間人の残量・引揚や戦犯裁判などを解説。
 
 本書の中心になっている第二章第一節は、日ソの戦闘のようすを解明する立派な研究書なのだと思うのですが、読んでいてあまり面白くなかった。ソ連側、日本側の著書だと、自分に都合の良い記述になりがちだけれど、読み物としては面白い。それに対して、本書のようにソ連側・日本側の両方の資料をもとに客観的に書くと、読み物としてはつまらない記述になってしまいます。本書はウケを狙ったものではなくて、研究書なのだから、面白さに欠けるのは当然なのですが。

 また、第二章第二節は「ソ連軍による満州での蛮行」のタイトルで、戦闘中に発生したソ連軍や地域住民による日本人民間人の被害について書いているが、戦闘中は混乱するものだから、平時の感覚通りにすべてが進むことなどありえない。ソ連軍が日本人民間人を攻撃したと書かれているが、戦闘員は欺瞞するものだから、民間人風であるとか民間人と名乗ったことが非戦闘員である証拠にはならない。そもそも、満州開拓団は自警組織だったので、軍事的性格を帯びていたことも事実なので、純粋な非戦闘員ということはできないだろう。
 
 著者はシベリア抑留に関する著作が多い。シベリア抑留では日本人俘虜が大変な思いをしたとして、ソ連を糾弾する論調が巷間には多い。「シベリア抑留期の日本人俘虜の大変さ」とは、要するに「衣食住が不十分だった」「労働がきつかった」ということだ。本書の著者は単純にそのような立場に立っているわけではない。戦争中には、日本の捕虜になった連合軍俘虜もいるが、このような人の証言では「理不尽にスコップで殴りつけられて大けがをした」「無意味な行進をさせられた」など、虐待を目的とした虐待の告発がある。しかし、シベリア抑留では、日本のような虐待を目的とした虐待の話がないのは、どうしてだろう。
 本書の第二章第二節では、戦争の混乱した状況での、一部兵士の犯行をソ連が防止できなかった事例が書かれている。翻って、日本を見ると、南京大虐殺は部隊として住民虐殺をしたとの研究もあるし、中国や朝鮮では、日本軍が組織として強姦等の犯罪を犯していたことが知られる。本書の記述には、ソ連軍が組織として強姦犯罪を犯していたとの事例は紹介されていない。ソ連兵個々には悪人がいたとしても、ソ連軍自体は日本軍のように残虐ではなかったのだろうか。

安倍政権の対ロシア交渉は評価に値する2020年09月07日

今日の朝日新聞社説のタイトルは「対ロシア交渉 失敗を検証して出直せ」である。
 
 長かった安倍政権も、ようやく終わりが近づいてきた。朝日新聞の社説は安倍政権による対ロ交渉を批判するもの。
 
『日本の外務省には、過去の経緯やロシアの論理に通じた人材がいる。だが安倍氏と側近はその専門知を軽視し、「2島返還ならプーチン氏も応じるだろう」との思い込みで、長年の主張を一方的に後退させた。』
 朝日新聞社説における安倍対ロ外交の総括はこの一文に示されている。
 
 朝日新聞の言う「過去の経緯やロシアの論理に通じた人材」が戦後75年間やってきたことは、領土交渉を一歩も進ませないことだった。高級官僚の目的は、組織を維持・永続させることと、天下りポストを確保することである。日本の外務官僚たちは、日露外交を膠着させることにより、領土問題対応部署や天下り場所を維持し続けてきた。この状態が多少変化したのは小泉改革の時で、天下りポストが削減させられたため、天下りポストとしての領土問題の魅力は少なくなった。
 外務官僚たちが領土問題を進めないために使った手法は、「領土問題が解決しない限り経済関係を進めてははならない、四島返還以外は絶対ダメ」ということだった。どう考えても無理な条件を突き付けて、領土問題を進展させないというのが、彼らの策謀だった。
 安倍内閣では、この方針に大きく変更がなされた。「経済関係の進展の先に、領土問題がある。現実的で具体的な解決を目指す。」このように、戦後一貫して外務官僚たちがやってきた「領土交渉を一歩も進ませない」との政策に風穴を置けたのが安倍外交だった。ただし、戦後75年間膠着した問題が、一朝一夜に解決するものでもないので、領土問題で目立った成果は乏しかったが、交渉に道を開いた点で、今後の進展に期待が持てるものだ。

本の紹介―神々は真っ先に逃げ帰った2020年08月25日

 
アンドリュー・バーシェイ/著 富田武/訳『神々は真っ先に逃げ帰った 棄民棄兵とシベリア抑留』(2020.5)人文書院
 
 太平洋戦争末期、ソ連が対日参戦すると、満州の日本軍は、神社のご神体特訓高級幹部をいち早く日本に退避させた。また、満鉄も上級職員と家族をいち早く退避させたため、一般日本軍人や一般居留民は満州後に取り残され、通の死者を出した。さらに、生き残った日本軍人の多くはシベリア抑留されることとなった。
 本書のタイトルは、このような事実を示している。しかし、本書の内容は高級軍人たちが逃げ帰った原因を明らかにするものではなく、シベリア抑留の実態を解明する研究書。
 
 第一章(序章)、第二章はシベリア抑留の説明。一昔前の本のおおくは、シベリア抑留苦労談だったが、本書はそういう内容ではなく、シベリア抑留の原因や実態を解明している。
 
 第三章から第五章が本書のメインで3人の抑留体験者の体験を記す。
 第三章は画家・香月泰男のシベリア抑留体験。香月は早期に帰国したため、彼の抑留帰還は日本の旧軍組織利用した管理体制だった。このため、日本軍将校による日本兵に対する過重労働・食料削減・虐待など、旧日本軍の悪弊が横行していた。このため、香月のシベリア抑留体験は苦労話になっている。
 第四章は「極光のかげに」の著者・高杉一郎のシベリア抑留体験。ソ連は、シベリア抑留者に共産主義を植え付けて、帰国後、日本国内で共産主義者として活動する者を育てようとした。そのために、いわゆる民主化教育を行った。高杉は、この民主化教育の経験者。
 第五章は詩人・石原吉郎のシベリア抑留体験。石原は戦争俘虜ではなくて戦犯として最後期まで残された一人。
 3つの章では、それぞれ異なった時期に帰国した人の体験を調査しているので、シベリア抑留の時代ごとの変遷が何となく理解できるようになっている。しかし、所詮個人の体験なので、本当にこれで全体像を理解してよいのかという疑問は残る。シベリア抑留を知らない人が、概要を理解するのには有益だろう。
  
 第六章(終章)は新田次郎夫人で作家の「藤原てい」の引き揚げ体験の話。
 
 本書は翻訳なので、若干読みにくい気がする。また、日本の文学作品の引用が多く、本当に史実と理解してよいのか疑問も残る。

本の紹介ー下駄で歩いた巴里 林芙美子紀行集2020年07月10日

 
林芙美子/著, 立松和平/編『下駄で歩いた巴里 林芙美子紀行集』 岩波文庫 (2003/6)
 
 林芙美子の短編集。20編の紀行文が収録されている。
 「樺太の旅」は昭和十年に樺太を訪れた時の紀行文で、35ページほど。著者は稚内から船(亜庭丸)で豊原に上陸した後、日露国境に近い「オタスの森」まで旅行した。当時、樺太は王子製紙が大規模に操業しており、木を切った後ほとんど放置していたため、樺太の山は多くが禿山状態になっていた。著者は旅行途中で、樺太の山々が禿山であることを目撃し、心を痛めている。

本ーサガレン2020年07月03日

 
梯久美子/著『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』 KADOKAWA (2020/4)
 
 著者はノンフィクション作家。著者の2度のサハリン旅行の記録。著者は鉄道ファンのようで、サハリンの鉄道に対する記述が多い。
 前章は北サハリンのノグリキまでの列車旅行とノグリキで計便鉄道の廃線跡を訪ねた時の記録。紀行文のほかに、林芙美子の『下駄で歩いた巴里』への言及がある。
 後章は宮沢賢治の話が中心。

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