革命期のウクライナ2022年03月21日

 
 ウクライナが国家となったのはソ連崩壊の30年前です。それ以前は、ウクライナはロシアの中央あるいは地方の一つでした。
 そういうと、1918年にウクライナ国家が成立していたとする意見もあるだろう。内乱の混乱期に、各勢力が群雄割拠していた状況の中で、ごく一部の地域を掌握し国家樹立宣言した勢力もあったが、ウクライナ全土に国家が成立したわけではなく、このような国家を理由に「1918年にウクライナ国家が成立」と考えるのは無理がある。
  
 ロシア革命後、キエフには中央ラーダ・臨時政府派・ボルシェヴィキの3つの勢力が存在していた。このうち、キエフでは中央ラーダ派が勝利し、ウクライナ人民共和国の成立を宣言した。この時期、中央ラーダ派がウクライナ全土にわたって政権をとっていたわけではなく、工場労働者の多いの東部の要衝ハリコフなどでは、ボルシェヴィキ派が圧倒的優位にたっていた。またウクライナ南部ではマフノ農民党が活躍していた。1918年にボリシェビキがキエフを奪回すると、西部に逃れた中央ラーダは、ドイツと、いわゆる「パン条約」を締結し、ウクライナの莫大な穀物と引き換えに、ドイツの軍事力により、キエフを占領した(1918年3月)。また、ドイツはウクライナを独立国家として承認した。しかし、中央ラーダ政権のもとでは十分な穀物収奪が出来なかったドイツは、ウクライナの少数の地主と結託し、18年4月クーデタによって中央ラーダ政権を打倒、スコロパツキー政権を樹立し、農村からの穀物収奪を強行した。
 
 写真はスコロパツキー政権が1918年7月に発行した切手。
 
 ドイツ本国が不安定になると、ドイツは1918年秋にはウクライナから撤退し、スコロパツキー政権は崩壊した。ウクライナでは各派や外国軍が入り乱れて争う状態が続いた。こうした中、1919年2月、ボルシェヴィキはキエフを占領し、ソヴィエト・ウクライナ政権を成立させる。やがて、ボルシェヴィキによる「ソヴィエト・ウクライナ政権」が内戦を勝ち抜いて、1923年7月5日、ウクライナはソヴィエト社会主義共和国連邦に組み込まれることになった。

 このように見てゆくと、ウクライナが歴史的見地から国家である合理性はない。
 民族的観点からはどうだろう。民族とは、血統・言語・宗教によって分けられる人間集団のことを言う。ウクライナ人の血統はスラブなので、ロシアの主要民族と区別がない。宗教も正教なので、ロシアの主要民族と区別がない。
 言語は、ウクライナ語によって区別できるとの主張がある。ウクライナ語とは何か。ロシア語の方言との考えと、ロシア語とは独立した言語であるとの考えがある。後者だと、ウクライナはウクライナ民族、ロシア民族、ベラルーシ民族、ポーランド民族などの、多民族国家になり、ロシアとの違いがなくなる。このように、ウクライナをロシアと異なる民族国家と定義することは、かなり難しい。ウクライナをウクライナ語化して、ウクライナ民族の国家を人為的に作り出すことが行われたが、これに反発するルガンスク・ドネツク住民たちの騒動が民族紛争に発展した。
 ロシア・ウクライナ戦争の発端はNATO東方拡大問題と、ルガンスク・ドネツク問題がある。ウクライナは、今すぐNATOに加入することは諦めたようだが、ルガンスク・ドネツク問題はまだ解決がついていないようである。ルガンスク・ドネツク問題は、ウクライナ国家の定義にかかわるので、大統領や取り巻きが、頭の悪い俳優だけならば、解決の知恵は出ないだろう。政治経験のある知恵者は大統領取り巻きにいないのだろうか。

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