本の紹介-北方領土は泣いている ― 2007年09月10日
『北方領土は泣いている』斎藤勉・内藤泰朗/編著(産経新聞出版 2007.7)を読みました。この本を読むことを、あまり、お勧めしません。
日本政府の北方領土要求は、1956年以来、4島一括返還論だった。この主張は、日本の要求が100%満たされない限り、絶対に認めないというもので、要するに、永遠に北方領土は1mmも返還されないものである。
2005年12月、岩下明裕氏は三島返還論を主張した著書を出版した。さらに、麻生外務大臣は3島プラスα返還論を発表、日本国内においても、現実的解決を目指す主張が現れるようになった。
6月に産経新聞社から、北方領土関連本が発行された。
今回出版された、産経新聞の本は、4島一括返還論以外は絶対だめであると主張し、最近の現実的解決を目指そうとする論調を攻撃している。論拠は、50年間使い古された日本に都合の良い一方的主張で、まったく新味は無い。しかも、類書に比べても、論証は緻密さを欠いている。
日本政府外務省は、パンフレット『われらの北方領土』を発行し、希望者に無料配布しているが、産経新聞社の本には、外務省のパンフレットを適当につなぎ合わせて、あとは威勢のよいことを書いただけのような印象を受けた。
もし、北方領土問題に関心があるのならば、外務省発行のパンフレットをもらって読んだほうが、まともな知識が得られるだろう。
ところで、産経新聞の本には、不思議な記述がある。P120
ちなみに、太平洋戦争の終戦日は、世界的には日本がポツダム宣言を受諾した8月14日、または昭和天皇の終戦の詔勅が放送された翌15日となっているが、ロシアでは、今でも、日本側が米戦艦ミズーリ上で降伏文書に調印した9月2日だと主張している。
終戦記念の日は、日韓では8月15日、英国では8月14日であるが、米国では、公式には9月2日とする事が多いだろう。中・ロでは9月3日とされている。産経新聞社の本の記述は事実に反する。自分の主張をごり押しするために書いているような本なので、事実に反した記述があっても、特に驚くにはあたらないが、この部分は、話の内容と直接関係ないことである。なぜ、事実に反した記述になっているのか不思議である。
なお、日本の高校生の多数が使用している、山川出版『詳説日本史』では、次のように、第2次大戦の終了は9月2日であると記されている。
9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本政府および軍代表が降伏文書に署名して、4年にわたった太平洋戦争は終了した。産経新聞記者には、高校でまじめに日本史を学んだものは少ないのだろうか。
ちょっとがっかり ― 2007年09月20日
ユーラシア21研究所理事長で拓殖大学客員教授等を務める吹浦忠正氏は、北方領土問題研究の第一人者の一人です。氏は、Blogを公開し、頻繁に記載しています。
吹浦忠正氏は、Blogに、どなたかが択捉島で寛永通宝を拾ったことを理由に、「江戸時代に日本人がいた、ここは日本固有の領土であるということを今さらながら証明したようなものだった」と書いています。
江戸時代に寛永通宝が持ち込まれたとしても、それは、当時、日本との交易があったことを示すだけであり、日本固有の領土との根拠にはなりません。そういうことを7月6日に書きました。
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2007/07/06/1629293
最近、吹浦忠正氏は、拾った寛永通宝の画像を公開しています。ちょっと、がっかりしました。
http://blog.canpan.info/fukiura/archive/2693
河口で拾ったにしては、傷みが少なく、自然界に放置されてからそれほど経っていないように思えます。
寛永通宝は、江戸時代に鋳造された貨幣ですが、明治30年ごろまでは一般に通用していました。このため、明治以降も、財産として多くの人は保管しています。寛永通宝があったからといって、それが、江戸期に持ち込まれたとは言えず、明治に入植した人が、手持ちの財産の一部として持ち込んだ可能性があります。
明治期に持ち込まれた寛永通宝が、家の中に保管され、戦後になっても、家屋の中に放置されていたものが、近年、自然界に放出された、と考えたほうが妥当かも知れません。寛永通宝があったというだけで、「日本の固有の領土」や「アイヌとの交易」の証拠とするには、無理があります。
なお、寛永通宝は、現在でも100億枚ほど残っているそうです。私も、寛永通宝を2枚持っています。1枚は、小学生のとき、道で拾ったもの、もう1枚は、同じ頃、友達にもらったもの。
吹浦忠正氏は、Blogに、どなたかが択捉島で寛永通宝を拾ったことを理由に、「江戸時代に日本人がいた、ここは日本固有の領土であるということを今さらながら証明したようなものだった」と書いています。
江戸時代に寛永通宝が持ち込まれたとしても、それは、当時、日本との交易があったことを示すだけであり、日本固有の領土との根拠にはなりません。そういうことを7月6日に書きました。
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2007/07/06/1629293
最近、吹浦忠正氏は、拾った寛永通宝の画像を公開しています。ちょっと、がっかりしました。
http://blog.canpan.info/fukiura/archive/2693
河口で拾ったにしては、傷みが少なく、自然界に放置されてからそれほど経っていないように思えます。
寛永通宝は、江戸時代に鋳造された貨幣ですが、明治30年ごろまでは一般に通用していました。このため、明治以降も、財産として多くの人は保管しています。寛永通宝があったからといって、それが、江戸期に持ち込まれたとは言えず、明治に入植した人が、手持ちの財産の一部として持ち込んだ可能性があります。
明治期に持ち込まれた寛永通宝が、家の中に保管され、戦後になっても、家屋の中に放置されていたものが、近年、自然界に放出された、と考えたほうが妥当かも知れません。寛永通宝があったというだけで、「日本の固有の領土」や「アイヌとの交易」の証拠とするには、無理があります。
なお、寛永通宝は、現在でも100億枚ほど残っているそうです。私も、寛永通宝を2枚持っています。1枚は、小学生のとき、道で拾ったもの、もう1枚は、同じ頃、友達にもらったもの。