ポクロフスク(ドネツク北西部戦線) ― 2025年08月11日
ドネツク州西部にある交通の要衝ポクロフスク、ディミトロフの解放作戦が進んでいる。ロシア軍はポクロフスク市中心部まで侵入している模様。ポクロフスク、ディミトロフに通じる道路は、ほとんどすべて封鎖または射撃統制に置かれており、ウクライナ軍の補給は困難を極めている。西北西に通じる自動車道E50はUdachne近郊ロシア軍の射撃統制に置かれ、北に向かう道路T0515はRodynske東側のロシア軍の射撃統制に置かれている。E50の北側にある北西に向かう道路は狭い。東・南・西に向かう道路はすべてロシア軍支配地を通るため、ウクライナの補給路として機能しない。
最近、ロシア軍は、RazineからZolotyi Kolodyazへ進軍し、Zolotyi Kolodyazの一部を占領した(図の赤矢印)。この結果、Dobropilliaからクラマトルスクへ通じる道路T0514が射撃統制に置かれ、ウクライナ軍の輸送に支障をきたしている模様。
最近、ロシア軍はドネツク州北西部に軍を大移動させているようで、今後は、コンスタンチノフカ・クラマトルスク・スラビャンスク戦線が激化する可能性が高い。
図の赤線はロシア軍が支配している市村、青線はウクライナ軍が支配している市村、緑線は交戦中。
P.S. ロシア軍は、すでにT0514道路の一部を支配したとの情報がある。今後、Dobropilliaへ向かう可能性がある。ただし、一方では、ウクライナ・アゾフ大隊の部隊が、T0514道路を奪回したとの情報もある。
本-地政学から見る日本の領土 ― 2025年08月08日

沢辺有司/著『地政学から見る日本の領土』彩図社 (2022/8)
もし、日本の領土問題に関心があって、何か本を読もうと思っているならば、本書よりも、もっと歴史知識がある人が書いた本を読んだ方が良い。
本書は、以下の書籍の増補改訂版
沢辺有司/著「ワケありな日本の領土」彩図社 (2014/7)
日本の領土問題である「北方領土」「尖閣」「竹島」をほぼ均等に解説。一般向け解説書であって、専門的内容は無いが、読みやすい。本の内容は、日本政府の主張が中心のように感じる部分もあるが、それだけではなく、日本で、いろいろ言われていることを、そつなくまとめたような解説。このため、これでよいのか疑問に感じる点も多々ある。
著者の説明は、読みやすいので、大雑把に読むならこれで良いように感じるが、きちんと読むと、論理の詰めが甘い。
尖閣問題を扱った「米軍が撤退したフィリピンの失敗」の項では、在沖縄米軍が撤退したら、中国軍がやってきてあっという間に支配すると説明し、その前例としてフィリピンで米軍が撤退した後、南沙諸島に中国軍基地が作られたことを挙げている。しかし、冷静に考えれば、沖縄と南沙では全く状況が異なり、単純な比較はできない。南沙はそもそも島ではなく、中国は海中に構造物を作ったのであって、領土を占領したという事実はない。これに対して、沖縄は人口140万の領土なので、平時に住民の意向を無視して占領することなどできない。
竹島問題を扱った「韓国併合とは無関係」の項では、竹島編入が1905年で日韓併合が1910年だから両者は無関係と説明している。いくら明治天皇睦仁がバカだったとしても、日本外交が竹島編入のときに日韓関係を考えていないわけはないではないか。せめて中学生程度の日韓史知識は持って執筆してほしかった。竹島編入は日本公使三浦梧楼による韓国王后暗殺の10年後ですよ。なお竹島編入直後に日韓通信郵便合同が行われた。
P230には、「古代、ヤマト政権は朝鮮半島南部の伽耶国を勢力圏におく」と書かれている。著者の歴史知識に呆れた。
ポクロフスク解放作戦展開中 ― 2025年08月07日
ドネツク州西部の交通の要衝ポクロフスク、ディミトロフの解放作戦が進んでいる。既に北から北西、西北西方向を残して封鎖が完了している。西北西方向はE50自動車道があるが、Kotlyneに布陣するロシア軍の射撃統制下にある。北西方向のHryshyneを通る道は狭い。北方向のT0515道路は金網で覆うなどのドローン対策が完了していて、ウクライナ軍にとって、物資・兵員輸送の大動脈だった。
7月上旬、Razineがロシア軍支配になると、T0515道路もウクライナ軍にとって安全でなくなった。7月29日ごろ、ネット上ではウクライナ応援団により、Razineを奪回したとの投稿が増えたが、その後、Razine奪回は嘘報であることが明らかとなった。ポクロフスク戦線に関して、ウクライナ人らしい者が、募金を募る投稿があるが、詐欺の可能性が高いので注意が必要だ。Razine奪回説も、詐欺のための投稿だった可能性がある。
Rodyns'keあるいはビールィツィケをロシア軍に占領されると、ウクライナはT0515道路が使えなくなるので、Razineから両村の間の地域で戦闘が活発である。すでに、ロシア軍はRodyns'keの東端を占領した模様。また、ビールィツィケ東を通る鉄道線も封鎖した模様。
RazineとRodyns'keの間にはテリコン(ボタ山)がある。テリコンは高度があるので、1年程前までは、テリコンの攻防戦が重要だった。しかし、今は、有線ドローンが多くなり、地理的高度の重要性が薄れてきたため、Razine、Rodyns'ke間のテリコンは、あまり重視されていないようだ。
なお、ポクロフスク市もロシア軍の攻撃が盛んだが、ロシア軍が占領した地域は南の一部などわずか。
また、ポクロフスクの北東20㎞にあるコンスタンチノフカの攻防も活発化しつつある。コンスタンチノフカの南にある貯水池(Kleban-Bykske Reservoir)はアゾフ大隊が防衛しているが、ここの東端にロシア軍が到達したとの情報がある。
本の紹介-沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか ― 2025年08月05日

林博史/著『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』集英社新書 (2025/4)
近代日本史が専門の林博史による沖縄戦の解説。戦史ではなくて、沖縄戦に民衆が関与させられ多くの犠牲者を出した状況を説明する。戦史ではないので、米軍の上陸、米軍と日本軍の銭湯の状況などについては、ほとんど触れられていない。
沖縄戦で20万人もの民衆が犠牲になった原因は一言でいえば日本軍の捨て石にされたことである。本書では、そのことが詳しく具体的に記されており、わかりやすい。
沖縄戦で多数の民間人が犠牲になった原因は、昭和天皇があまりにも自己中心的で愚か者だったためであるとは、著者は書いていない。しかし、以下の記述があり、昭和天皇の責任の一端を指摘している。
『「生きて虜囚の辱を受けず」という文言で有名な戦陣訓(1941年1月)は天皇の裁可を得て東条英機陸軍大臣が出した訓示であるが、すでにその前の1940年3月に制定された「作戦要務令第三部」のなかで「死傷者は万難を排し敵手に委せざる如く勉むるを要す」と負傷者を捕虜にならないように処置することが天皇の裁可した軍令で定められていた。この作戦要務令には御名御璽、重傷者の殺害は天皇の命令であったと言える。(P118)』
『 -沖縄戦は避けられなかったのか-
さかのぼって考えていくと、近衛文麿が天皇に終戦を提言した45年2月の時点で(マリアナ諸島を失って戦争の帰趨は決していたし、さらにレイテ、ルソンなどに米軍が上陸しフィリピンも失うことが確実になっていた時点で)終戦を決断していれば沖縄戦を避けられた可能性があった。そうすれば当然、原爆投下やソ連参戦も避けることができた。天皇が8月に終戦の「聖断」を下したのは国体護持=天皇制維持にこだわった、あまりにも「遅すぎた聖断」だった。
さらにさかのぼると、1941年11月に英米など世界を相手にアジア太平洋戦争を始めたこと自体が暴挙としか言いようがない。
アジア太平洋戦争が日中戦争の長期化のなかでその原因が生まれたことを考えると、1937年からの日中戦争についても、盧溝橋事件を早期に収拾できたはずであり、そうすれば全面化長期化は避けられた。中国から撤退して日本の政治経済社会の改革に向かっていればまったく違った歴史が見出せただろう。日中戦争は1931年からの満州事変の延長上にあったことを考えれば(別の道の可能性もあったが)、満州事変が関東軍の謀略から始まったものであったとしても、天皇や政府、日本社会がその侵略主義・排外主義に乗っかったことが大問題だった。(P303)』
P222には学徒動員での死者が多かった原因について以下のように書かれている。
『 1930年代前半までに多様な考え方を持つ教員は徹底して弾圧排除され、30年代後半、特に日中戦争が始まった37年以降は軍国主義・皇民化教育が徹底されていく。学徒隊に動員された学徒は小学校からそうした教育を受けてきた世代にあたる。男子学徒の軍事訓練は1920年代から学校教練によって始まっており、1938年以降は女子も軍事訓練と同様の訓練がおこなわれるようになった。「手榴弾突撃」のような競技も体育に取り入れられていた。44年春からは政府の「決戦非常措置要綱」を受けて、ちょうど第32軍が沖縄に創設されたこともあり、飛行場や陣地づくりに動員された。
疎開しようとする学徒たちを学校当局が「非国民」呼ばわりすることもあった。特に師範学校(女子部も含めて)ではそれが厳しかった。西岡一義女子部長は朝礼の訓示で、毎度のように「戦争に負ければ山河はない。何処へ行っても同じだ。自分たちの島は自分たちで守れ」と疎開するものを、非国民よばわれしていた。(P222)』
日本軍人は戦死者が多く捕虜がほとんどいなかった。これは、捕虜になることを禁止していたためであるが、沖縄戦では、民間人に対しても投降を禁止し、死ぬことを強制・推奨していた。戦争が終わったら、国民は復興に尽力しなくてはならないのに、その国民を敢えてたくさん失わせる日本の方針は、上層部が、将来を見据えた戦略ができていなかった証拠だ。沖縄戦では「ひめゆり」など師範学校の女学生が犠牲になっている。戦後復興を全く考えていなかったとしか言いようがない。
沖縄戦は、国のトップが無能力だったために、国家の大計を誤った典型事例だったようだ。
ロシア軍攻勢 ― 2025年08月04日
ポクロフスク解放間近 ― 2025年08月03日

20歳の女性偵察部隊長だったアンゲリーナ・マルティニュク(Ангеліна Мартинюк)は、7月26日にポクロフスク付近で戦死した。彼女はウクライナ西部のザカルパチア出身で、志願兵としてウクライナ軍に加入していた。現在、ウクライナ軍は、18~24歳の女性を募集している。
兵員不足に悩むウクライナは未訓練の女性や高齢男性を入隊させて、戦死に追いやっている。ただし、政府高官の子弟や金持ちは海外移住や賄賂を使って兵役に行くことはない。
写真はXに投稿されていたアンゲリーナ・マルティニュクの葬列。赤と黒の旗は、ロシア革命当時、住民虐殺で有名なマフノ農民党が使用したものがもとになっており、ウクライナ極右のシンボルとなっている。
チャソフ・ヤール解放 ― 2025年07月31日
ロシア国防省の発表によると、チャソフ・ヤールの完全解放がロシア軍によって達成された。
チャソフ・ヤールはバフムトの西10㎞の町で、以前はウクライナ軍の兵站だったが、バフムト陥落後に、ウクライナ軍はここを拠点とした。チャソフ・ヤールが解放された今、コンスタンチノフカの解放が十分に視野に入っている。
チャソフ・ヤールはバフムトの西10㎞の町で、以前はウクライナ軍の兵站だったが、バフムト陥落後に、ウクライナ軍はここを拠点とした。チャソフ・ヤールが解放された今、コンスタンチノフカの解放が十分に視野に入っている。
ポクロフスク解放始まる ― 2025年07月26日
ポクロフスクはドネツクの北西50㎞にある交通の要衝。
1年以上前から、ポクロフスク戦線に関心がもたれていたが、今春以降はポクロフスク北東50㎞のコンスタンチノフカ戦線が活発化し、ポクロフスク戦線はおとなしかった。しかし、今月になって、ポクロフスク戦線が活発化し、ロシア軍による包囲網が進んでいた。
数日前から、ロシア軍がポクロフスク南部に侵入したとの情報があり、現在は、E50道路南側の一部をロシア軍が支配している模様。数か月前にも、ロシア軍がポクロフスクに侵入したとの情報があったが、この時は斥候による偵察行為のようだった。しかし、今回は、部隊による解放行為の可能性が高い。ロシア軍の進軍に対し、ウクライナ軍はかなり混乱しているようだが、徹底抗戦か撤退かの判断を迫られるだろう。
なお、ポクロフスクと一体化した都市であるディミトロフの東郊外の村、MykolaivkaとNovoekonomichneは、すでにロシア軍により解放された模様。
1年以上前から、ポクロフスク戦線に関心がもたれていたが、今春以降はポクロフスク北東50㎞のコンスタンチノフカ戦線が活発化し、ポクロフスク戦線はおとなしかった。しかし、今月になって、ポクロフスク戦線が活発化し、ロシア軍による包囲網が進んでいた。
数日前から、ロシア軍がポクロフスク南部に侵入したとの情報があり、現在は、E50道路南側の一部をロシア軍が支配している模様。数か月前にも、ロシア軍がポクロフスクに侵入したとの情報があったが、この時は斥候による偵察行為のようだった。しかし、今回は、部隊による解放行為の可能性が高い。ロシア軍の進軍に対し、ウクライナ軍はかなり混乱しているようだが、徹底抗戦か撤退かの判断を迫られるだろう。
なお、ポクロフスクと一体化した都市であるディミトロフの東郊外の村、MykolaivkaとNovoekonomichneは、すでにロシア軍により解放された模様。
本の紹介-世界史のなかの沖縄返還 ― 2025年07月21日

成田千尋/著『世界史のなかの沖縄返還』吉川弘文館 (2024/3)
終戦後、アメリカ統治になった沖縄は、今から50年ほど前に、日本に復帰した。本書は、この時の状況を解説する。「日本復帰」の他に、「アメリカ統治の継続」、「琉球独立」、「台湾帰属」、「中国帰属」なども理屈では考えられ、事実そのような主張も終戦初期にはあったが、数年後には、沖縄住民の大多数が日本復帰を希望しており、他の選択肢は事実上困難だった。本書には、「琉球独立」「台湾帰属」論についても、ある程度詳しく書かれている。しかし、これらの論はごく少数者の意見で、国際的にも、日本国内でも、琉球でも、ほとんど顧みられることはなかった。
琉球の日本復帰は「本土並み返還」といわれたが、復帰後の沖縄米軍基地は、復帰前とあまり変わらず、現在に至るも、米軍基地の多くは沖縄に押し付けられている。
このほか、最初の20ページほどで、中世琉球が日中両属になったことや、明治の琉球処分についても書かれている。この部分は、本書では琉球史知識の確認程度の内容なので、詳しく知りたい人は他書にあたった方が良い。
戦後まもなくして、沖縄世論が日本復帰論になる状況について、以下のように説明されている。
『戦争直後の沖縄では米軍を日本からの解放軍とみるような雰囲気もあり、初期に結成された政党も、沖縄民主同盟と人民党は独立論に近く、沖縄社会党は米国帰属を唱えるというように、日本復帰は掲げていなかった。しかし、中国大陸で一九四六年以降に国共内戦が再発し、米国が支持する国民党側が劣勢となったことなどから、沖縄もその影響を受けていく。その後、米国政府が沖縄の基地開発計画を定め、一九五〇年春から本格的な基地開発を始めると、沖縄でも日本復帰論が力を持つようになったのである。
また、一九五〇年一月にアチソン米国務長官が国際連合の信託を受けて米国が統治(信託統治)を行うと明らかにしたため、日本で沖縄復帰論を唱えていた沖縄出身者も危機感を強め、沖縄現地の復帰論者に働きかけを行うようになった。
そして、同年九月の沖縄群島知事選挙で日本復帰論者の平良辰雄が当選し、その支持勢力が復帰を主張する沖縄社会大衆党(以ド、社大党)を一〇月に結成した。その後、人民党が社大党と同じく日本復帰を主張し、平良の対立候補だった松岡政保の支持者を中心とする琉球共和党が沖縄独立、沖縄社会党が米国による信託統治を・王張するというように、日本帰属をめぐって政党の構図も変化した。日本復帰論が優勢となるなか、沖青連も日本復帰を主張する人民党や社大党の活動に積極的に関わっていった。(P132,P133)』
本の紹介-スマナサーラ長老が道元禅師を読む ― 2025年07月20日

アルボムッレ・スマナサーラ/著『スマナサーラ長老が道元禅師を読む』佼成出版社 (2024/4)
テーラワーダ仏教(上座部仏教(小乗仏教)のスマナサーラ長老による近著。
道元・正法眼蔵のいくつかの句をもとに、これらを解説している。上座部仏教の目指すものと、道元の目指すものが近いため、道元の解説と同時に、テーラワーダ仏教の考え方の説明になっている。
正法眼蔵のなかでも、現成公案の句に関する説明が多い。
本書の中で、著者は道元の思想を「テーラワーダ仏教の僧侶として道元禅師を見ると、仏道をしっかり歩んでいる偉い先輩のお坊さんとして見えるんですね。(P142)」と高く評価している。上座部仏教と、道元の目指すものが近いだけではなく、心の在り方の理解も近いのだろう。上座部仏教は日本の大乗仏教と比較して、釈迦の仏教に近いと考えられるので、日本の宗教家の中で、道元は釈迦の教えをかなり正しく理解していたと言えるのだろう。