竹島は日韓どちらのものでしょう ― 2006年11月12日

1876年Stielerのロシア地図を入手しました。この地図は、当時、世界的に最も評価の高かった地図です。ロシア地図ですが、端っこには日本も載っています。この地図の、千島・樺太部分は以下をご覧ください。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouMAP/Stieler.jpg
1877年3月、日本は太政官指令にて、竹島外一島が日本の領土でないことを決定しました。これは、島根県が地籍編纂に当たって、竹島・松島が日本の領土であるのかどうかを問い合わせたことに答えたものです。島根県の伺い書では、竹島とはウルルン島、松島とは現・竹島(ドクト)であることは明白です。
1820年代頃のイギリス・アロースミスの地図では、ウルルン島の更に朝鮮半島よりに、架空の島『アーゴノード島』が描かれています。現・竹島は描かれていません。このため、シーボルトは、アーゴノード島を竹島、ウルルン島を松島とした地図を1840年代に刊行します。
日本の一部勢力の中には、「1877年3月太政官指令にて日本の領土ではないとされた『竹島外一島』とは、アーゴノード島とウルルン島であり、現・竹島は日本の領土である」との主張がありました。普通に考えたらおかしな主張でしょう。太政官指令を受けた島根県は、ウルルン島、現・竹島共に、地籍編纂をしていないのだから、『竹島外一島』は、ウルルン島と現・竹島のことでしょう。
太政官指令は1877年なので、当時の地図で、架空の島であるアーゴノード島がどのように扱われていたのだろうかと思い、1876年刊行のStieler地図を確認すると、アーゴノード島は記載されていません。この時代、アーゴノード島が存在しない島であることは、既に知られていました。1877年当時の日本政府が、30年も前のシーボルト地図や、50年も前のアロースミスの地図しか、知らなかったとは、到底考えられません。日本の明治の役人はそこまでバカではなかったでしょう。
なお、1870年刊行のStielerの日本地図でも、アーゴノード島は記載されていないそうです。
1876年Stielerのロシア地図の日本海部分は以下をご覧ください。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Other/Ullundo/Stieler.jpg
ところで、この地図を見ると、ウルルン島と竹島は日本の領土になっています。しかし、実際には、当時、ウルルン島には朝鮮人が居住していたので、日本の領土との主張は無理な状況でした。
島根県広報誌「フォト島根No161(2006年発行)」においても、『外一島とは、現在の竹島とみられる』と説明されているように、『太政官指令の外一島は現・竹島ではない』との主張は、今では少数派のようです。
現在、日本政府は竹島領有を次のように説明しています。『我が国は、遅くとも17世紀半ばには、実効的支配に基づき竹島の領有権を確立していた』。日本政府に都合の良い資料だけを都合よく解釈すると、そのような結論になるのかもしれませんが、ずさんすぎる説明です。