LOMO(2) ― 2006年12月02日

写真は、ロモグラフィーの、魚眼カメラFisheye2です。ファインダーは取り外し可能で、アクセサリーシューに取り付けて使います。プラスチック製で軽い、おもちゃのようなカメラだけれど、写りはそこそこ。L判程度ならば、十分に鑑賞に堪えます。ただし、周辺部は、ぼやけています。
『北方領土 特命交渉』 を読む ― 2006年12月04日

鈴木宗男・佐藤優/共著 『北方領土 特命交渉』 講談社
昨日は、この本を読みました。以前から読みたいと思っていたのですが、図書館の予約待ちで、今まで読むことができませんでした。そのぐらい、自分で買えって、言わないでください。本を買うと置き場が無くて困るので、本は、なるべく買わないようにしています。
政府から離れて、批判する立場になると、本音で物を書くんですね。面白い本です。政治家の本としては、事実を正確に書こうとしている点にも好感が持てます。まだ、お読みになっていない人は、一読の価値があります。
同書の中で、政府の機関である『北方領土対策本部』『北対協』のみならず、民間組織である『北方同盟』『北連協』も、北方領土問題解決を妨げる勢力として批判しています。本の中では、『千島連盟』を批判してはいませんが、鈴木宗男氏が千島連盟よりということもなさそうなので、結局、鈴木宗男氏は、北方領土返還運動団体のほとんどすべてと、対立関係にあるようです。
鈴木宗男氏は、北方領土返還運動関係者の中で、特に、北連協の児玉泰子事務局長と、青山学院大学の袴田茂樹教授を激しく批判しています。民間運動団体の事務局長や学者が政治家に激しく批判されるというのも不思議なことです。児玉泰子氏や袴田茂樹氏は、北方領土返還運動の利権に、よほど深く絡んでいるのでしょうか。
北方領土は日ソ国交回復から50年たっても全く進展が有りません。その間、返還運動には毎年多額の国費が投入されています。北対協だけでも、年間10億円を超えているとか。もし、北方領土問題が解決したら、これらの運動に絡んで利権に預かっていた人たちは、とたんに失業してしまう。北方領土問題が全く進展しない最大の理由は、北方領土返還運動の利権に有るように思えてなりません。
鈴木宗男氏は北方領土問題の現実的解決を目指しています。これは、考えてみればあたりまえのことです。北方領土問題が全く進展しないことで、一番不利益を受けているのは根室の漁民でしょう。鈴木宗男氏は彼らの支持で国会に当選しているのだから、根室の漁民に報いることをしなかったら、彼の政治生命は終わりです。
鈴木氏と、児玉・袴田両氏の対立は、北方領土問題が進展すると利益を得る人と、膠着していると利益を得る人の立場の違いのように思えます。
拓大・木村汎氏の論文 ― 2006年12月10日
雑誌『世界週報』2006年11月21日号に、日ソ共同宣言・国交回復50年特集として、北方領土問題の論文が記載されている。拓殖大学教授の木村汎氏は『こちらから性急に動かず機が熟するのを待て』との記事の中で、「4島一括返還をまるでお経のように唱え続けるべし」と主張しているが、戦後61年も経つのに、何も進展していない状況を、いつまでこのまま持続させるつもりなのか。
北方領土返還運動には政府の予算が投入されているため、返還運動をビジネスとして、自己の利益のために行っている人たちが存在している。このような人たちにとって、北方領土問題の解決は一番困ることである。北方領土返還運動に寄生している人たちにとって一番好ましい状況は、「4島一括返還をまるでお経のように唱え続け」「機が熟するのを待ち」、その結果、永遠に領土問題が解決しないことだろう。
北方領土問題が解決しなかった原因の一つに、反共・反ソの問題がある。東西冷戦の時代、米国は日本に米軍基地を置き、米国の世界戦略に利用していた。朝鮮戦争・ベトナム戦争では、日本から直接、これらの国を攻撃したこともあった。北方領土問題は、このような米国の世界戦略や戦争追行のために、日本を利用するための手段として用いられた部分がある。実際、1956年に日ソ間で、領土問題を解決し平和条約を締結しようとしたとき、米国ダレスが重光外相を厳しく叱責して、それを阻止したことが知られている。東西冷戦は終結したが、未だに、領土問題を反ロシア戦略に利用する勢力も存在しているだろう。
拓殖大学の木村汎氏が、北方領土問題の早期解決に批判的な本心はどこにあるのだろう。木村氏が日ソ・日ロの時代を通じてどんなことをしてきたかについて、詳しく知ることが必要のようである。
参考:2006年10月18日、鈴木宗男議員のムネオ日記には以下の記述がある。
北方領土返還運動には政府の予算が投入されているため、返還運動をビジネスとして、自己の利益のために行っている人たちが存在している。このような人たちにとって、北方領土問題の解決は一番困ることである。北方領土返還運動に寄生している人たちにとって一番好ましい状況は、「4島一括返還をまるでお経のように唱え続け」「機が熟するのを待ち」、その結果、永遠に領土問題が解決しないことだろう。
北方領土問題が解決しなかった原因の一つに、反共・反ソの問題がある。東西冷戦の時代、米国は日本に米軍基地を置き、米国の世界戦略に利用していた。朝鮮戦争・ベトナム戦争では、日本から直接、これらの国を攻撃したこともあった。北方領土問題は、このような米国の世界戦略や戦争追行のために、日本を利用するための手段として用いられた部分がある。実際、1956年に日ソ間で、領土問題を解決し平和条約を締結しようとしたとき、米国ダレスが重光外相を厳しく叱責して、それを阻止したことが知られている。東西冷戦は終結したが、未だに、領土問題を反ロシア戦略に利用する勢力も存在しているだろう。
拓殖大学の木村汎氏が、北方領土問題の早期解決に批判的な本心はどこにあるのだろう。木村氏が日ソ・日ロの時代を通じてどんなことをしてきたかについて、詳しく知ることが必要のようである。
参考:2006年10月18日、鈴木宗男議員のムネオ日記には以下の記述がある。
木村汎氏は「ロシアの軟化待て」という見出しで考えを述べているが、更にあと61年も待てないので、記事紹介は省略させてもらう。鈴木宗男議員の情報開示に期待したい。
ロシアはパノフ大使の時代に、またロシュコフ現大使着任の時に、ラブロフ外相とプーチン大統領はそれぞれ日本に対してシグナル・メッセージを何度となく送ってきた。日本側がそのシグナル・メッセージを読み取ることが出来なかったのである。ロシアの専門家である木村氏も、今日の記事からすると読み取っていなかったことになる。同時に、木村氏が日ソ・日ロの時代を通じてどんなことをしてきたかについても、私なりに調べて国民に情報開示をしていきたい。
北方領土問題 ― 2006年12月15日
北方領土問題(1):
麻生外務大臣が、4島のうち50%返還で領土問題を解決する案に言及したとのことです。4島返還に固執して、戦後60年たっても一歩も進展しなかった状況よりは、だいぶマシな案です。解決の意思表示を示したという点では、多少評価しても良いのかもしれません。
北方領土問題(2):
昨日の朝日新聞によると、北大の岩下明裕氏の著書『北方領土問題 4でも0でも、2でもなく』が、大佛次郎賞になったとか。この本は、ロシア・中国国境画定問題を参考にして、日露領土問題でも、2島と4島の中間で妥協することを提言しています。
北方領土問題(3):
岡山大学の吉田浩助教授(ロシア近代史)のページをみると、『解決に向け進みはじめた北方領土問題』の題目で、三島返還論を歓迎するコメントを書いています。
http://www.okayama-u.ac.jp/user/seiyoshi/essay23.html
吉田氏は、2年半前に、3島返還論を主張していたので、最近の動きを歓迎するのは当然なのかも知れません。
しかし、日ソ共同宣言では、歯舞色丹の2島にのみ触れていることを考えると、2島を超えた要求はなかなか難しいのではないかと思います。そもそも、2島返還は、『日本の4島返還』と『ソ連の返還不要』の中間案として、出されたものであるともいえるので、さらに、2と4の中間を取って3というのは、そう簡単には行かないでしょう。
2島、3島、4島、まあ、そんなことを言っていないで、さっさと、少しでも進展して欲しいものです。
麻生外務大臣が、4島のうち50%返還で領土問題を解決する案に言及したとのことです。4島返還に固執して、戦後60年たっても一歩も進展しなかった状況よりは、だいぶマシな案です。解決の意思表示を示したという点では、多少評価しても良いのかもしれません。
北方領土問題(2):
昨日の朝日新聞によると、北大の岩下明裕氏の著書『北方領土問題 4でも0でも、2でもなく』が、大佛次郎賞になったとか。この本は、ロシア・中国国境画定問題を参考にして、日露領土問題でも、2島と4島の中間で妥協することを提言しています。
北方領土問題(3):
岡山大学の吉田浩助教授(ロシア近代史)のページをみると、『解決に向け進みはじめた北方領土問題』の題目で、三島返還論を歓迎するコメントを書いています。
http://www.okayama-u.ac.jp/user/seiyoshi/essay23.html
吉田氏は、2年半前に、3島返還論を主張していたので、最近の動きを歓迎するのは当然なのかも知れません。
しかし、日ソ共同宣言では、歯舞色丹の2島にのみ触れていることを考えると、2島を超えた要求はなかなか難しいのではないかと思います。そもそも、2島返還は、『日本の4島返還』と『ソ連の返還不要』の中間案として、出されたものであるともいえるので、さらに、2と4の中間を取って3というのは、そう簡単には行かないでしょう。
2島、3島、4島、まあ、そんなことを言っていないで、さっさと、少しでも進展して欲しいものです。
竹島は日韓どちらのものでしょう ― 2006年12月17日
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し日本国は独立を回復した。日本国の範囲は基本的には、この条約に示されている。
平和条約で、日本国は、朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を喪失した。しかし、竹島については、条約の中に明示されておらず、日・韓いずれのものであるのか、不明である。日本、韓国共に自国に都合よく解釈している。
韓国政府は、平和条約会議に先立って、大韓民国政府意見書を米国に提出した。1951年8月10日、ディーン・ラスク国務次官補は、竹島は日本の領土であるとの説明がなされている米国覚書を、韓国大使に対して渡した。この覚書だけを見ると、竹島は日本の領土との主張が正しいように思えるが、条約草案の変遷を見ると、必ずしも日本の主張が正しいとも思えない。
サンフランシスコ平和条約における竹島の扱いを、以下に記載しました。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Other/Ullundo/HeiwajouyakuTakeshima.htm
日本政府は、平和条約を締結するに当たって、米国に対して36冊に及ぶ資料を提出、日本の立場を説明している。このうち、1947年6月には、「太平洋及び日本海小諸島」と題する文書を、米国に提出、日本の立場を説明した。この文書によって、米国が竹島日本領論に傾くことになった可能性がある。ただし、この文書は、現在、日本政府によって非公開とされているため、詳しいことは分からない。これら重要な資料が公開されるまでは、竹島問題も、北方領土問題も、十分な解明はできないかもしれない。
平和条約で、日本国は、朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を喪失した。しかし、竹島については、条約の中に明示されておらず、日・韓いずれのものであるのか、不明である。日本、韓国共に自国に都合よく解釈している。
韓国政府は、平和条約会議に先立って、大韓民国政府意見書を米国に提出した。1951年8月10日、ディーン・ラスク国務次官補は、竹島は日本の領土であるとの説明がなされている米国覚書を、韓国大使に対して渡した。この覚書だけを見ると、竹島は日本の領土との主張が正しいように思えるが、条約草案の変遷を見ると、必ずしも日本の主張が正しいとも思えない。
サンフランシスコ平和条約における竹島の扱いを、以下に記載しました。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Other/Ullundo/HeiwajouyakuTakeshima.htm
日本政府は、平和条約を締結するに当たって、米国に対して36冊に及ぶ資料を提出、日本の立場を説明している。このうち、1947年6月には、「太平洋及び日本海小諸島」と題する文書を、米国に提出、日本の立場を説明した。この文書によって、米国が竹島日本領論に傾くことになった可能性がある。ただし、この文書は、現在、日本政府によって非公開とされているため、詳しいことは分からない。これら重要な資料が公開されるまでは、竹島問題も、北方領土問題も、十分な解明はできないかもしれない。
竹島問題-もっとまじめに取り組んで欲しい ― 2006年12月21日
久しぶりに、外務省の竹島のページを見たら、あきれた誤りが訂正されていました。
外務省のホームページは訂正されたけれど、外務大臣答弁は訂正されていません。外務省は、日本政府の正式説明である、外務大臣の答弁は誤りであるとの認識なのでしょうか。
(以前の記述)
江戸時代の初期(1618年)、伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも1661年には、両家は幕府から竹島を拝領していた。
(現在の記述)
江戸時代の初期(1618年)、伯耆国の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島への渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していた。その際、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも1661年には、両家は幕府から竹島を拝領していた。
注1)伯耆藩は存在しませんこのように、2点が訂正されています。しかし、外務大臣答弁は訂正されていません。
注2)大谷家に残る古文書には鬱陵島を拝領したことが記されているそうです。大谷家には、ほら吹きがいたということを証明する資料でしょう。なお、『伯耆藩』の文字は、同じ文書に記載されています。このような資料を採用しないのは良いことでしょう。
注3)『遅くとも1661年には、両家は幕府から竹島を拝領していた』この記述は変更されていません。これは、上記、大谷家に残る古文書に記載されたもので、史実とするには無理があります。
平成十七年四月十五日(金曜日)衆議院外務委員会における町村信孝外務大臣答弁
竹島の領有権の根拠という部分でございます。これは、資料は手にするだけでも大変大部なものでございまして、多少読み上げることをお許しいただきますと、相当古くから竹島を、昔は松島とも呼んでいたようでございますが、認知してきた。江戸時代の初期、一六一八年、したがって徳川幕府ができて間もなくでございます。伯耆藩の、これは鳥取でございますけれども、大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受けて、毎年この島で漁業を行い、アワビを幕府に献上していましたけれども、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも一六六一年には、両家は幕府から竹島を拝領していたというところが、それ以前にもまたいろいろな事実があるようでございますが、一応、かなり確認できる部分としてはそのあたりからのものがある。
外務省のホームページは訂正されたけれど、外務大臣答弁は訂正されていません。外務省は、日本政府の正式説明である、外務大臣の答弁は誤りであるとの認識なのでしょうか。