本-ブッダという男2024年02月15日

 
清水俊史/著『ブッダという男 初期仏典を読みとく』 筑摩新書 (2023/12)
 
読むことを薦めない
 
 初期仏教の概略を知るために読むのならば、この点に関して、それほどおかしなことが書かれているわけでもないので、読んでも損はないかもしれないが、それならば、他書の方が良い。
 
 少し古い本だと、
 ベック/著、渡辺照宏/訳『仏教』(岩波文庫)
 渡辺照宏『仏教』(岩波新書)
などの名著があり、また、最近の本だと、以下の本など、読みやすいものがたくさんある。
 馬場紀寿『初期仏教』(岩波新書)
 三枝充悳『仏教入門』(岩波新書)
 佐々木閑『仏教の誕生』(河出新書)
 
 さて、本書の場合は、著者がひねくれているのだろうか。本の帯には『誤謬と偏見を排し、その実像に迫る』とあるが、著者の思い込みが強い仏教論になっている。
 本書の前半では、P108の記述によると、『①ブッダは平和主義者であった、②ブッダは業と輪廻の存在を否定した、③ブッダは階級差別を否定し、平等思想を唱えた、④ブッダは女性差別を否定した、という四つのありがちな現代人ブッダ論を再検討し、そのいずれも歴史的文脈から外れることを明らかにしてきた。』とのことだ。
 著者は『ブッダは平和主義者であった』ことを否定している。著者は、平和主義者の定義を、絶対的に殺人者を嫌悪することと捉えているようだ。しかし、現実には、兵士もいるし、殺人の罪を犯した人もいる。殺人罪で服役している人に対して、宗教家が教戒師として、その後の生き方の相談に応じることは珍しくない。ブッダも宗教家なので、殺人についても、その後の心をどうするのかという、現実的指導を行っていたと推測され、著者の考える平和主義者の定義に従った行動をとることはなかっただろう。しかし、それは、ブッダが平和主義者でなかったとの根拠にはならない。他の②~④についても同様で、著者の勝手な定義からそれているので、そのような事実はなかったと強弁しているようで、まともな議論とは思えない。
 
 本書後半は、良く知られた初期仏教の解説なのだが、ここも、おかしなことが書かれている。明治以降になると、日本では、ブッダの教えはどのようなものっだったのか、考古学・文献学的な研究が行われている。このような研究成果に対して、著者は不満のようだ。
 『初期仏典に先入観なく向き合うことは不可能であり、そこからブッダの歴史的文脈を正確に読み出すことはきわめて困難である。(P116)』
 初期仏典になるべく先入観なく向き合い、そこから仏教の歴史的文脈を読みだすことは、私たち現代人にとって重要な研究だ。著者が、初めから放棄したいのならば、好きにすればよいことだが、他人の研究にケチを付けるのは、正しい態度ではない。
 P116に、あきれた記述がある。『仏弟子たちは、ブッダの生涯や事績を先入観なく羅列しようとしたのではなく、ブッダの偉大な先駆性を遺すために篤い信仰心を持ってこれを編纂した。』
 仏教は特許ではないのだから『先駆性』は必要ない。すべての宗教は、大なり小なり、それ以前の宗教や成立した時代・社会を反映しているもので、仏教も例外ではない。後代の弟子たちが残したものは、仏教のその社会における有用性であり、ブッダの教えも、その時代における有用性に価値があったものだ。このため、考古学・文献学的な研究が、ブッダや教団の教えの姿を解明する上で、有用であることは間違いない。

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