本の紹介-沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか ― 2025年08月05日
林博史/著『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』集英社新書 (2025/4)
近代日本史が専門の林博史による沖縄戦の解説。戦史ではなくて、沖縄戦に民衆が関与させられ多くの犠牲者を出した状況を説明する。戦史ではないので、米軍の上陸、米軍と日本軍の銭湯の状況などについては、ほとんど触れられていない。
沖縄戦で20万人もの民衆が犠牲になった原因は一言でいえば日本軍の捨て石にされたことである。本書では、そのことが詳しく具体的に記されており、わかりやすい。
沖縄戦で多数の民間人が犠牲になった原因は、昭和天皇があまりにも自己中心的で愚か者だったためであるとは、著者は書いていない。しかし、以下の記述があり、昭和天皇の責任の一端を指摘している。
『「生きて虜囚の辱を受けず」という文言で有名な戦陣訓(1941年1月)は天皇の裁可を得て東条英機陸軍大臣が出した訓示であるが、すでにその前の1940年3月に制定された「作戦要務令第三部」のなかで「死傷者は万難を排し敵手に委せざる如く勉むるを要す」と負傷者を捕虜にならないように処置することが天皇の裁可した軍令で定められていた。この作戦要務令には御名御璽、重傷者の殺害は天皇の命令であったと言える。(P118)』
『 -沖縄戦は避けられなかったのか-
さかのぼって考えていくと、近衛文麿が天皇に終戦を提言した45年2月の時点で(マリアナ諸島を失って戦争の帰趨は決していたし、さらにレイテ、ルソンなどに米軍が上陸しフィリピンも失うことが確実になっていた時点で)終戦を決断していれば沖縄戦を避けられた可能性があった。そうすれば当然、原爆投下やソ連参戦も避けることができた。天皇が8月に終戦の「聖断」を下したのは国体護持=天皇制維持にこだわった、あまりにも「遅すぎた聖断」だった。
さらにさかのぼると、1941年11月に英米など世界を相手にアジア太平洋戦争を始めたこと自体が暴挙としか言いようがない。
アジア太平洋戦争が日中戦争の長期化のなかでその原因が生まれたことを考えると、1937年からの日中戦争についても、盧溝橋事件を早期に収拾できたはずであり、そうすれば全面化長期化は避けられた。中国から撤退して日本の政治経済社会の改革に向かっていればまったく違った歴史が見出せただろう。日中戦争は1931年からの満州事変の延長上にあったことを考えれば(別の道の可能性もあったが)、満州事変が関東軍の謀略から始まったものであったとしても、天皇や政府、日本社会がその侵略主義・排外主義に乗っかったことが大問題だった。(P303)』
P222には学徒動員での死者が多かった原因について以下のように書かれている。
『 1930年代前半までに多様な考え方を持つ教員は徹底して弾圧排除され、30年代後半、特に日中戦争が始まった37年以降は軍国主義・皇民化教育が徹底されていく。学徒隊に動員された学徒は小学校からそうした教育を受けてきた世代にあたる。男子学徒の軍事訓練は1920年代から学校教練によって始まっており、1938年以降は女子も軍事訓練と同様の訓練がおこなわれるようになった。「手榴弾突撃」のような競技も体育に取り入れられていた。44年春からは政府の「決戦非常措置要綱」を受けて、ちょうど第32軍が沖縄に創設されたこともあり、飛行場や陣地づくりに動員された。
疎開しようとする学徒たちを学校当局が「非国民」呼ばわりすることもあった。特に師範学校(女子部も含めて)ではそれが厳しかった。西岡一義女子部長は朝礼の訓示で、毎度のように「戦争に負ければ山河はない。何処へ行っても同じだ。自分たちの島は自分たちで守れ」と疎開するものを、非国民よばわれしていた。(P222)』
日本軍人は戦死者が多く捕虜がほとんどいなかった。これは、捕虜になることを禁止していたためであるが、沖縄戦では、民間人に対しても投降を禁止し、死ぬことを強制・推奨していた。戦争が終わったら、国民は復興に尽力しなくてはならないのに、その国民を敢えてたくさん失わせる日本の方針は、上層部が、将来を見据えた戦略ができていなかった証拠だ。沖縄戦では「ひめゆり」など師範学校の女学生が犠牲になっている。戦後復興を全く考えていなかったとしか言いようがない。
沖縄戦は、国のトップが無能力だったために、国家の大計を誤った典型事例だったようだ。