東京裁判開廷60周年の日2006年05月04日

 今日、5月4日は東京裁判開廷60周年の日です。東京裁判には賛否両論あります。ほとんどすべての裁判の判決には、賛否両論あるものなので、東京裁判に賛否両論があることは、至極当然のことです。
 でも、良く分からないのは、有力な批判に「勝者による裁判」との説があります。なんで、これが批判になるのか。そもそも、裁判とは、権力がある側がさばくのだから、勝者が裁判するしかないではないですか。「勝者の中から裁判官が選出されている」と批判する人もいますが、これも理解しがたい理由です。日本の裁判だって、裁判官は国家により選出されています。個人が国家を訴えた場合であっても、国家の側の裁判官が裁判を行います。決して、国家とは無関係な人の中から裁判官を選ぶわけでは有りません。単に、国家の行政機構と裁判官が独立しているに過ぎません。裁判とは権力の側が行うものです。
 さらに、理解しがたい批判があります。「東京裁判は見せしめだった」と言うものです。そもそも、犯罪を処罰する最大の理由は、犯罪の抑止にあります。2度と類似の犯罪が行われないことを願って、刑事罰が課されるのだから、刑罰に見せしめ的要素が含まれていることは、当然のことです。もし、東京裁判が見せしめでなかったとしたら、裁判を行った意味がありません。
 東京裁判は、米国の犯罪を裁くことなく、日本の犯罪のみを裁いた不公平な裁判との批判も有ります。しかし、東京裁判は、日本で行われた裁判であって、日本の戦争犯罪人を裁くものなのだから、日本の犯罪のみを裁いた裁判であることは、当たり前のことです。米国の犯罪を裁かなかったことが、悪いことだったかどうかは、米国政治の問題で、東京裁判とは無関係です。
 ただし、裕仁(昭和天皇のこと)を裁かなかった点は、東京裁判が極めて不完全で、不十分な裁判であったことを露呈しています。裕仁を死刑にしなかった点で、東京裁判は、大きな問題点を残しました。

東京裁判に対する私の考え:
 裁判とは、本来、不完全な人間が裁くものだから、完全無欠などはありえません。東京裁判は、他のすべての裁判と同様に、何らかの欠点があるものでした。そういう意味で東京裁判に不完全なところがあったのは仕方の無いことです。不完全な部分は、徐々に修正される性格のものでしょう。このため、国際裁判の最初の頃のものである東京裁判には、特に、問題点が多かったことも否定できないでしょう。だから、マイナス面を取り上げて非難することも、プラス面を取り上げて評価することも可能です。そのときの都合で、両者の立場を使い分ければよいのです。評価なんて、所詮そんなものです。

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