木村汎著「日露国境交渉史」(中公新書1993.9)について ― 2005年08月03日
北大スラブ研所長だった木村汎氏は北方領土問題の第一人者として知られています。木村汎氏は四島返還がライフワークなのでしょうか。嘘でもなんでも良いから、北方領土返還運動を日本国内向けに推し進めるために役に立つ情報がほしいと思っている人には、木村汎氏の著書は最適です。しかし、北方領土問題を正確に知ろうとする人は、木村説を無批判に受け入れると、とんだ誤りを犯すことになるかも知れません。
木村汎著「日露国境交渉史」(中公新書1993.9)から、ちょっと首を傾げたくなる記述から、思いつくまま3点記します。
①「日ソ共同宣言」について。
「日ソ共同宣言」に関して以下の解説がある(P136)。
ソ連が歯舞・色丹を日本に「返還する」のではなくて「引き渡す(ベレダッチ)」と述べていること。いったん自己の所有権下においた領土を返却するニュアンスをもつ「返還する」という言葉を避け、「引き渡す」というたんに物理的移転を示す中立的な用語としている。
きわめて誤解を与える表現である。これを読んだ人は、歯舞・色丹は、いったんソ連の所有権下においた領土ではないと、誤解する可能性が高い。
事実はそうではなく、ソ連は「すでに正当なソ連の領土になっている」との解釈をしていた。(実際、ソ連は1946年2月2日付命令で国有財産にしています。)また、日本は「本来は日本の領土」との立場だった。ソ連の立場だと「割譲」になり、日本の立場だと「返還」になる。
そこで、どちらとも取られることのないような表現「引き渡し(ペレダーチ)」を使った、と説明されることが多い。当時の国会議論を見ると、そのようになっている。実際には、ヤルタ協定で、日本はソ連に千島を『handed over(引き渡す)』となっているので、同じ用語が使われたのだろう。
(参考)
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/19561125.htm
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/Kokuyuuka.htm
②サンクト・ペテルブルグ条約(千島樺太交換条約)のタイトルについて
サンクト・ペテルブルグ条約のタイトルに関して以下の解説がある(P66)。
サンクト・ペテルブルグ条約のタイトル自体「樺太千島交換条約」と略称されて、日露双方によって不思議と思われなかった事実は、どう説明したらよいのか。すなわち、これは、文字通り樺太における日本の権益を放棄することの交換において日本が新しく獲得した地域が千島であることを示している。
サンクト・ペテルブルグ条約はフランス語が正文であり、日本語文は日本国内の私訳にすぎない。日本語文に便宜上どのようなタイトルがついたとしても、条約とは関係ないことであり、ロシアの預かり知らないことである。木村汎氏は「日露双方によって不思議と思われなかった」と書いているが、ロシアが日本語文を確認したと言う事実は知られていない。実際、条約本文には「千島」なる文字は存在しないので、「樺太千島交換条約」の略称は、条約交渉とは関係ないところで付けられたことが分る。なお、フランス語正文には条約のタイトルは無かったと思う。(確認していないので誤りかも知れない。)
ところで、サンクト・ペテルブルグ条約で日本が放棄した樺太とは、樺太すべてではないので、「獲得した千島は千島のすべてである」との主張が、全く成立し得ないことは明らかでしょう。
③西村答弁について
国後・択捉が日本の放棄した千島含まれると答弁した、いわゆる西村答弁の解説について(P122)。
一九五一年十月十九日の衆議院平和特別委員会の席上、高倉定助氏による「クリル・アイランドとはいったいどこをさすのか」との質問にたいし、西村氏は次のように答えた。「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。」西村氏が当時このように答えたことは、国会議事録の中に記録されている紛れもない事実である。条約局長という要職にある者のこの発言は、当時の日本の混乱ぶりを如実に物語っている。とはいえ、これはいわば国内における発言であり、国際法上の責任を問わるべき性質のものではない。しかも同局長は、直ちに続けて次のような但し書きをつけることも忘れなかった。「しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまったくその立場が違うことは、すでに(吉田)全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会において総理から御答弁があった通りであります。」
木村汎氏は「当時の日本の混乱ぶりを如実に物語っている」と、まるで西村条約局長に非があるような記述をしている。実際には国後・択捉は放棄した千島に含まれることで、政府答弁は一貫していた。何も混乱していない。
自分の説を強弁するために、西村条約局長答弁に非があるかのような解説には、賛成できない。
なお、西村答弁では、「しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまったくその立場が違う・・・」と続けて発言したので、国後・択捉は放棄した千島に含まれないかのような誤解をする人がいた。このため、翌月の参議院において、草葉政府委員は再度、国後・択捉は放棄した千島に含まれるとの説明を行っている。
(参考)
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/19500308.htm
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/19511019J.htm
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/19511106J.htm
木村汎著「日露国境交渉史」(中公新書1993.9)から、ちょっと首を傾げたくなる記述から、思いつくまま3点記します。
①「日ソ共同宣言」について。
「日ソ共同宣言」に関して以下の解説がある(P136)。
ソ連が歯舞・色丹を日本に「返還する」のではなくて「引き渡す(ベレダッチ)」と述べていること。いったん自己の所有権下においた領土を返却するニュアンスをもつ「返還する」という言葉を避け、「引き渡す」というたんに物理的移転を示す中立的な用語としている。
きわめて誤解を与える表現である。これを読んだ人は、歯舞・色丹は、いったんソ連の所有権下においた領土ではないと、誤解する可能性が高い。
事実はそうではなく、ソ連は「すでに正当なソ連の領土になっている」との解釈をしていた。(実際、ソ連は1946年2月2日付命令で国有財産にしています。)また、日本は「本来は日本の領土」との立場だった。ソ連の立場だと「割譲」になり、日本の立場だと「返還」になる。
そこで、どちらとも取られることのないような表現「引き渡し(ペレダーチ)」を使った、と説明されることが多い。当時の国会議論を見ると、そのようになっている。実際には、ヤルタ協定で、日本はソ連に千島を『handed over(引き渡す)』となっているので、同じ用語が使われたのだろう。
(参考)
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/19561125.htm
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/Kokuyuuka.htm
②サンクト・ペテルブルグ条約(千島樺太交換条約)のタイトルについて
サンクト・ペテルブルグ条約のタイトルに関して以下の解説がある(P66)。
サンクト・ペテルブルグ条約のタイトル自体「樺太千島交換条約」と略称されて、日露双方によって不思議と思われなかった事実は、どう説明したらよいのか。すなわち、これは、文字通り樺太における日本の権益を放棄することの交換において日本が新しく獲得した地域が千島であることを示している。
サンクト・ペテルブルグ条約はフランス語が正文であり、日本語文は日本国内の私訳にすぎない。日本語文に便宜上どのようなタイトルがついたとしても、条約とは関係ないことであり、ロシアの預かり知らないことである。木村汎氏は「日露双方によって不思議と思われなかった」と書いているが、ロシアが日本語文を確認したと言う事実は知られていない。実際、条約本文には「千島」なる文字は存在しないので、「樺太千島交換条約」の略称は、条約交渉とは関係ないところで付けられたことが分る。なお、フランス語正文には条約のタイトルは無かったと思う。(確認していないので誤りかも知れない。)
ところで、サンクト・ペテルブルグ条約で日本が放棄した樺太とは、樺太すべてではないので、「獲得した千島は千島のすべてである」との主張が、全く成立し得ないことは明らかでしょう。
③西村答弁について
国後・択捉が日本の放棄した千島含まれると答弁した、いわゆる西村答弁の解説について(P122)。
一九五一年十月十九日の衆議院平和特別委員会の席上、高倉定助氏による「クリル・アイランドとはいったいどこをさすのか」との質問にたいし、西村氏は次のように答えた。「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。」西村氏が当時このように答えたことは、国会議事録の中に記録されている紛れもない事実である。条約局長という要職にある者のこの発言は、当時の日本の混乱ぶりを如実に物語っている。とはいえ、これはいわば国内における発言であり、国際法上の責任を問わるべき性質のものではない。しかも同局長は、直ちに続けて次のような但し書きをつけることも忘れなかった。「しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまったくその立場が違うことは、すでに(吉田)全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会において総理から御答弁があった通りであります。」
木村汎氏は「当時の日本の混乱ぶりを如実に物語っている」と、まるで西村条約局長に非があるような記述をしている。実際には国後・択捉は放棄した千島に含まれることで、政府答弁は一貫していた。何も混乱していない。
自分の説を強弁するために、西村条約局長答弁に非があるかのような解説には、賛成できない。
なお、西村答弁では、「しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまったくその立場が違う・・・」と続けて発言したので、国後・択捉は放棄した千島に含まれないかのような誤解をする人がいた。このため、翌月の参議院において、草葉政府委員は再度、国後・択捉は放棄した千島に含まれるとの説明を行っている。
(参考)
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/19500308.htm
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/19511019J.htm
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/19511106J.htm
木村汎著「日露国境交渉史」(中公新書1993.9)について (その2) ― 2005年08月24日
2005年08月03日の記事の補足です。
2005年08月03日の記事で、木村汎著「日露国境交渉史」(中公新書1993.9)から、ちょっと首を傾げたくなる記述3点を取り上げました。
ここで取り上げた3点はすべて二島返還論を否定するための記述です。これら3点が、直接、領土交渉に影響することはないかも知れません。しかし、四島返還運動には重要な箇所です。
①について:
「歯舞・色丹は、いったんソ連の所有権下においた領土ではない」と多くの日本人が信じているならば、もし、二島返還論で妥結したら、日本の戦果はゼロとなってしまい、外務大臣も総理大臣も政治生命を失います。すなわち、「歯舞・色丹は、いったんソ連の所有権下においた領土ではない」と多くの日本人に信じ込ませることに成功すれば、二島返還論を封じ込めることが可能になります。
実際は、日ソ共同宣言で二島返還、特に色丹島の返還が明示されたことは、鳩山・重光の大きな成果でした。
②について:
かつて、四島返還論の最大の論拠は、「サンクト・ペテルブルグ条約では、千島列島に、国後・択捉は含まれない」との、条約解釈でした。しかし、この主張は和田春樹氏らの研究で否定されてしまいました。
木村汎氏の説明は、サンクト・ペテルブルグ条約では、千島列島に、国後・択捉は含まれないと、主張するものです。サンフランシスコ条約では日本の千島列島の放棄が明示されています。このため、四島返還論者は、どうしても、千島列島に国後・択捉が含まれないと主張したいようです。
③について
1951年の西村答弁は国後・択捉の領有をきっぱりと否定するものでした。この論拠に立てば、二島返還しかありえません。ところが、その後の政府解釈の変更により四島返還論になったわけです。この歴史的事実に着目すると、四島返還論が絶対ではないことが分ります。このため、四島返還論に固執する人たちは、西村答弁をどうしても認めたくないようです。
逆に、全千島返還論者も西村答弁に着目します。即ち、二島返還論が、政治的判断で四島返還論に変わったのならば、将来、全千島返還論が国是になることもありうるわけです。
2005年08月03日の記事で、木村汎著「日露国境交渉史」(中公新書1993.9)から、ちょっと首を傾げたくなる記述3点を取り上げました。
ここで取り上げた3点はすべて二島返還論を否定するための記述です。これら3点が、直接、領土交渉に影響することはないかも知れません。しかし、四島返還運動には重要な箇所です。
①について:
「歯舞・色丹は、いったんソ連の所有権下においた領土ではない」と多くの日本人が信じているならば、もし、二島返還論で妥結したら、日本の戦果はゼロとなってしまい、外務大臣も総理大臣も政治生命を失います。すなわち、「歯舞・色丹は、いったんソ連の所有権下においた領土ではない」と多くの日本人に信じ込ませることに成功すれば、二島返還論を封じ込めることが可能になります。
実際は、日ソ共同宣言で二島返還、特に色丹島の返還が明示されたことは、鳩山・重光の大きな成果でした。
②について:
かつて、四島返還論の最大の論拠は、「サンクト・ペテルブルグ条約では、千島列島に、国後・択捉は含まれない」との、条約解釈でした。しかし、この主張は和田春樹氏らの研究で否定されてしまいました。
木村汎氏の説明は、サンクト・ペテルブルグ条約では、千島列島に、国後・択捉は含まれないと、主張するものです。サンフランシスコ条約では日本の千島列島の放棄が明示されています。このため、四島返還論者は、どうしても、千島列島に国後・択捉が含まれないと主張したいようです。
③について
1951年の西村答弁は国後・択捉の領有をきっぱりと否定するものでした。この論拠に立てば、二島返還しかありえません。ところが、その後の政府解釈の変更により四島返還論になったわけです。この歴史的事実に着目すると、四島返還論が絶対ではないことが分ります。このため、四島返還論に固執する人たちは、西村答弁をどうしても認めたくないようです。
逆に、全千島返還論者も西村答弁に着目します。即ち、二島返還論が、政治的判断で四島返還論に変わったのならば、将来、全千島返還論が国是になることもありうるわけです。