反日運動2005年12月31日

 今年1年を振り返ると、中国や韓国で反日運動が盛んだった年です。島根県の竹島の日設定、教科書問題、小泉総理の靖国参拝と、反日感情を悪化させる事が多い1年でした。
 私も靖国神社を参拝はしたのですが、結局3回しか行きませんで、靖国神社を十分に理解できたわけでは有りませんでした。ただし、靖国神社の展示館を、時間をかけて3回観覧すると、靖国神社は侵略を賛美し、侵略戦争をするための神社であることが、良く分かりました。

 ところで、日本の一部右翼勢力の中には、南京大虐殺(中国に侵略した日本軍が南京を占領し、南京住民の多数を虐殺した、忌まわしい事件)が存在しないと、とんでもないうそを言う人たちが存在します。人里はなれた、田舎町で虐殺した場合なら、シラをきりとおすことも可能でしょうが、大都会で白昼堂々と行われた犯罪を、隠し通すことには、無理があります。日本の皇族も、南京大虐殺があったことを、実際に見ており、戦後、著書の中で南京大虐殺の事実が記載されています。少々長い引用をもって、今年最後のBlogとします。引用が長すぎるので、関連のある部分を太字にしますが、原文は同じ字体です。
 この文章、ちょっと、嫌いです。『事変当初の一部の将兵の残虐行為』との認識は正しいのだろうか。残虐行為は一部将兵の問題ではなく、南京占領の戦略自体に付随していたことではなかったのだろうか。南京大虐殺は、日本軍が組織的に行った犯罪なのではないか、そんな疑問があります。

三笠宮崇仁親王(昭和天皇の弟)の著書「帝王と墓と民衆」から引用


 そのうち参謀として南京に行くことにきまった。「軍人の本懐これにすぎず」であった。その前にも戦地に行きたいと思っていたが、なかなかやってもらえず、竹田宮が騎兵の中隊長として敵兵の中に陣頭指揮された話をきいて切歯扼腕していたときでもあったから……。
 南京に着任してみると、とにかく警戒厳重で、司令部内で用をたしにゆくときさえ憲兵がついてくるありさまで、公務出張以外、私用で外出する気にはまったくなれなかった。一年いたあいだに中華料理を食べたのはたった二回しかなかった。まあそんなことはどうでもよいとして、わたくしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実体に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった。この失敗は軍および日本政府首脳者に真剣な反省をうなかし、新たに対華新政策なるものが決定され、わたくしが南京に在住していた一年間は、司令官以下この新方針の徹底に最大の努力をした。そのこと自体はまことによい変化ではあったが、すでに手遅れであった。ただ「焼け石に水」に過ぎなかった。
 事変当初、上海に上陸したある師団長は、「支那軍が降参しなければ四百余州を焼き払う。」と豪語したとかいううわさをきいたことがある。これはきわめて極端な例だと思っていたが、戦地を回っているうちに、ほんとうにそんな気分かみなぎっていたのには驚いた。というのは例の対華新政策が発表されるや、軍司令官はただちに「四悪」を禁止するという厳重な命令を下した。四悪というのは略奪、暴行、放火、強姦のことである。ところで、ある第一線の大隊長のいうことがふるっていた。今までは敵のいた家は焼きはらって進んだので、自分の大隊の第一線がどの辺を前進しているかすぐ分かった。ところがこんど放火を禁ぜられてみると、第一線がどこにいるかさっぱり分からない、と。まったく笑えないナンセンスであった。
 わたくしが上海地区へ視察に行ったとき、日本軍の上海付近上陸以来ちょうど六年たっていたが、ある第一線の師団長はしみじみとつぎのように述懐しておられた。「われわれが戦っている相手の中国軍と、日本軍に協力してくれている中国軍と比較すると、相手のほうが一般民衆にたいする軍紀が厳正です。われわれは正義の戦をしているはずなのに、軍紀のゆるんでいる軍隊を助けて、軍紀のひきしまっているほうの軍隊を討伐することに、つくづくと矛盾を感じます。」と。この言葉はその当時のわたくしの心境にぴったりと合っていたので、今だに忘れられない。
 この両師団長の言葉は、事変勃発当初と終戦直前の在華日本軍の首脳部の考えかたの変化を示す一例として、ひじょうに興味がある。もっとも、日本軍人の中にもはじめから中国を理解し、国際正義を十分にわきまえていた人もけっして少なくなかった。が、そういう人の意見は概して下積みになって、とかく勇ましい議論が軍の大勢を左右していたのであろう。わたくしは南京の参謀になるまで軍の中枢部に勤務したことがなかったので、断言はできないが、いま当時をふりかえってみると、どうもそんな気がしてならない。こうして軍の中枢部に反省がおこるまでには、満州事変の発端から数えて、じつに十年の歳月を要したのである。長い人類の歴史を考えると十年という年月は短いといえるかもしれない。しかし、軍の首脳部のこの反省がおびただしい人命-聖戦と信じ、進んで生命を捧げた同胞と、罪なき中国の人々-の犠牲の上になされたということを、われわれは夢にも忘れてはならない
 個人の心境の変化-宗教的にいえば回心-は比較的短期間におこりうるのにたいして、人間の社会とか特定の集団とかの、心理的変化は、じつに時間のかかるもの、というより坂の上から大きな石をころがすようなものだと思える。わたくしがここで言いたいのは、聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである。こういう考えかたを持った当初は、すこし極端かなとも思ったが、「暴戻なる支那軍」の鉄道爆破事件が、じつは一部の幹部の陰謀によるとはいえ、とにかく「暴戻なる関東軍(満州に駐在した日本軍)」のしわざであったことを知るにおよんでは、もはや極端だと思わなくなった。

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