第2次世界大戦-ソ連の勝利は日本のおかげだった!?2006年01月15日

 北陸地方を中心に大雪の被害が続いています。雪の映像を見ると、スターリングラード攻防戦の映画を思い出します。そこで、今日は、関連した話題です。

 大祖国戦争(第2次大戦のことをソ連ではこのように言う)2年目の1942年8月、ナチスドイツはスターリングラードに攻め入り、街は陥落の危機に陥りました。スターリングラード攻防戦です。
 11月、ソ連軍は反撃を開始、逆にドイツ軍を包囲します。ドイツ軍救出作戦も12月23日には断念、翌年1月31日には、ドイツ軍司令官パウルス投降、ソ連の勝利に終わりました。この戦闘は、独ソ戦争の形勢逆転を意味する重大な戦闘でした。この時以降、ソ連がドイツを追撃することになります。
 ソ連軍全体を指揮し、スターリングラード攻防戦の作戦を立案したのが、参謀総長のジューコフでした。彼は、ノモンハン事件の作戦指揮でレーニン勲章を受章しています。ノモンハン事件は、ソ連軍が本格的な近代戦争を戦った最初の戦争で、このとき、ソ連軍は近代戦を追行するノウハウを獲得しました。
 スターリングラード攻防戦において、ジューコフは、敵兵力を圧倒する兵力を結集し、敵軍を包囲し、一気に殲滅する作戦を立てました。これは、ノモンハンの経験を生かしたものです。
 敵兵力を圧倒する兵力を結集するまでの間、スターリングラードは決して陥落することは許されず、その間、乏しい兵力をやりくりして、ともかく敵兵力を少しでも消耗させる必要がありました。この重要な作戦を履行したのが、チュイコフです。彼は、敵に包囲されたスターリングラードにとどまり、乏しい兵力と乏しい物資をやりくりし、ともかく持ちこたえ、ドイツ軍の兵力を消耗させました。彼の取った戦法は接近戦です。離れて戦う場合、兵器の優劣が物を言いますが、接近戦になると、兵器の優劣は、あまり影響しなくなります。さらに、チュイコフは、スターリングラード市民を効率的に兵力として使用しました。このような作戦を取ったのは、スターリングラード市民の確固たる支持があったためですが、実は、もう一つ理由が有りました。
 スターリングラード攻防戦に投入される以前、チュイコフは軍事顧問団の団長として、中国で日本との戦いを支えていました。チュイコフがスターリングラードで取った戦法は、中国での日本との戦いの経験から得られたものだったのです。
 このように、スターリングラード攻防戦を勝利に導いたのは、ノモンハンや中国での、日本との戦いの経験があったためです。

 1945年5月、ベルリンが陥落し、ドイツ第三帝国は崩壊しました。ベルリン陥落作戦全体を指揮したのはジューコフです。また、真っ先にベルリンに攻め込んだ一人がチュイコフでした。ジューコフ・チュイコフの経験は、このときも十分に生かされていました。

 このように考えると、日本との戦争の経験は、独ソ戦勝利にたいして、大きな要因になっていたことは疑いないでしょう。日本のおかげで勝利したといったら、言いすぎですが。
 1945年8月、ソ連は対日参戦します。ドイツ戦勝利から3ヵ月後でした。3ヶ月の間に、軍隊をシベリア・極東に移送し、圧倒的な軍事力で,一気に関東軍を殲滅する作戦に出ました。ノモンハンの経験が生きていました。

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