8月23日-シベリア抑留2006年08月23日

 1945年8月23日からシベリア抑留が始まったとかで、8月23日をシベリア抑留の日としようとの運動があるそうです。
 シベリア抑留は、なれぬ寒さの中、食料も少なかったし、労働もきつかったので、不満な人が多いのは理解できます。ただし、日本政府として正式にシベリア抑留を不法としてソ連に損害賠償請求したとか、国連に提訴したとか、そういうことは、聞いたことが無いので、国際社会の中では、公式にはシベリア抑留は正当なものなのだと思います。(間違っているかも知れない。間違いならば、ご指摘ください。個人的に不当といっている人の存在や、政府として国内向けに不当と言ったことがあることは承知しています。だから、そういう指摘は不要です。)
 シベリア抑留者には、「戦争俘虜」と「犯罪受刑者」が存在します。戦争俘虜に労働をさせること自体は、ハーグ条約(ハーグ陸戦規則)で認められているし、戦争終結まで、俘虜としておくことは、珍しいことでは有りません。犯罪者を国内法に従って懲役刑にすることは、日本でもあたりまえの事として行われています。
 ポツダム宣言第9条の規定「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ…」にシベリア抑留は違反しているとの一部意見も有りますが、この解釈には賛成できません。「武装解除後すみやか」と書かれていないので、ハーグ陸戦規則第20条に従った、戦争終結後の帰還を約束したものでしょう。戦争終結とは、法的には、講和条約の発効のことです。ソ連との講和は、日ソ共同宣言です。このため、日ソ共同宣言発効までは俘虜を抑留したとしても、特にそれ自体に法的問題が生じるわけではないでしょう。実際には、日ソ共同宣言交渉の時には、俘虜はいませんでした。存在したのは、犯罪受刑者だけです。この人たちも、日ソ共同宣言発効に伴って、日本に帰還しています。もっとも、ハーグ条約にしろ、ポツダム宣言にしろ、日本が占領下に置かれてから、講和が成立するまで、十年もかかるとは想定していないことです。
 シベリア抑留は、なれぬ寒さの中、食料も少なかったし、労働もきつかったので、これを不当とする見解が多いのは事実です。実際、抑留者の数万人かそれ以上の人命が失われています。これは、戦時中、日本が行った朝鮮・中国人強制労働死亡者に匹敵するか、それ以上の死亡者数です。(どちらも、死亡者数が不正確なので、正しい比較は不可能です。)
 なお、シベリア抑留のうち、戦争俘虜は、樺太・沿海州・シベリア鉄道沿線等、ロシアとしては比較的暖かい地域に抑留されています。それに対して、犯罪者として長期の懲役刑を受けたものは、北極圏のように、きわめて自然環境がきびしい場所に抑留された場合があります。

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