北方領土返還運動の始まり ― 2008年12月04日
敗戦間もない昭和20年12月1日に、根室町長がマッカーサーに北方領土返還の陳情をしたとのことで、12月1日には、北方領土返還要求のイベントがあったそうです。12月2日や3日の新聞には、このニュースが散見されます。
ニュース報道では、根室町長の陳情内容が正確ではないので、説明します。
この当時、日本は、連合国の占領下で、本土は米国の占領、北方四島はソ連の占領になっていたので、返還とかそういう問題ではありませんでした。根室町長が陳情した内容は、『ソ連は北方四島を軍事占領しているので、これを、米軍の保障占領下に置いて欲しい』というものでした。
根室町長はGHQの占領政策を理解していないで、いいかげんな陳情をしたのではないだろうか、不思議です。
昭和20年9月末に公開された『降伏後ニ於ケル米国ノ初期対日方針』によると、『日本国本土ハ軍事占領セラルベシ(There will be military occupation of the Japanese home islands...)』と、日本全土が連合国による軍事占領になることを定めていたので、根室町長の陳情では、北方四島を例外的に保障占領としてくれということになってしまい、占領政策の根幹に矛盾します。さらに、北方四島がソ連の占領地となることは、トルーマン・スターリンの合意事項なので、マッカーサーに覆すことは不可能でした。
今から63年前の根室町長の陳情は、国際関係やGHQの占領方針を全く理解しようともていない、自分勝手なものでしたが、その後の北方領土返還運動も、国際関係を全く視野に入れていない、日本国内だけの運動が続いています。
なお、根室町長は陳情の1年後に、GHQから公職追放処分になっています。
ニュース報道では、根室町長の陳情内容が正確ではないので、説明します。
この当時、日本は、連合国の占領下で、本土は米国の占領、北方四島はソ連の占領になっていたので、返還とかそういう問題ではありませんでした。根室町長が陳情した内容は、『ソ連は北方四島を軍事占領しているので、これを、米軍の保障占領下に置いて欲しい』というものでした。
根室町長はGHQの占領政策を理解していないで、いいかげんな陳情をしたのではないだろうか、不思議です。
昭和20年9月末に公開された『降伏後ニ於ケル米国ノ初期対日方針』によると、『日本国本土ハ軍事占領セラルベシ(There will be military occupation of the Japanese home islands...)』と、日本全土が連合国による軍事占領になることを定めていたので、根室町長の陳情では、北方四島を例外的に保障占領としてくれということになってしまい、占領政策の根幹に矛盾します。さらに、北方四島がソ連の占領地となることは、トルーマン・スターリンの合意事項なので、マッカーサーに覆すことは不可能でした。
今から63年前の根室町長の陳情は、国際関係やGHQの占領方針を全く理解しようともていない、自分勝手なものでしたが、その後の北方領土返還運動も、国際関係を全く視野に入れていない、日本国内だけの運動が続いています。
なお、根室町長は陳情の1年後に、GHQから公職追放処分になっています。
わたらせ渓谷鉄道 ― 2008年12月05日
北方領土はロシアの領土 ― 2008年12月07日
政治的主張はさておき、現実問題として、北方領土はロシアの実効支配が確立しています。
現在、エトロフ島にある水産加工会社ギドロストロイの経営が好調で、ギドロストロイの製品は世界に輸出されています。
写真は、イクラの缶詰。北海道の会社がサンプル輸入したもののようですが、日本国内では正式販売されていません。エトロフ島産であることがはっきりわかるように、島の図が書かれています。
北方領土の現状についてはここを参照ください
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouGenjou/Genjou.htm
北方領土問題についてはここを参照ください
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm
南京大虐殺 ― 2008年12月14日
12月13日は南京陥落の日。南京大虐殺の記念館の入場者数は、この1年で500万人を越えたそうです。
写真は、経理部長の根岸莞爾主計少将が12月19日に差し出した葉書。軍人慰問のお礼状ですが、名宛人はバンザイ自動車の社長婦人だと思います。
『とうとう南京もとりました。ここでお正月をする事になりました。将兵一同もとても喜んで居ります。』
日本には、いまだに、南京大虐殺はなかったとの言説を吹聴するものもいます。このうち、東中野修道が南京大虐殺はなかったとする、いいかげんな著書は、東京地裁判決で「東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない 」とされています。
ビルマの竪琴 ― 2008年12月22日
昨日の新聞によると、小説『ビルマの竪琴』の水島上等兵のモデルとなった、中村一雄氏がお亡くなりになったそうです。新聞記事によると、故中村氏は群馬県碓氷郡松井田町出身で、永平寺で修行中に召集されたそうです。
私も松井田町出身なのですが、中村氏の話は聞いたことがありませんでした。もっとも、『ビルマの竪琴』は史実とはだいぶ異なっているそうです。
私も松井田町出身なのですが、中村氏の話は聞いたことがありませんでした。もっとも、『ビルマの竪琴』は史実とはだいぶ異なっているそうです。
処刑60周年記念日 ― 2008年12月23日
今日は、東京裁判死刑囚が処刑されてから、ちょうど60年です。東京裁判の評価として『勝者の裁判』との批判や『文明の裁判』との賞賛があります。『勝者の裁判』には違いないけど、批判するほど『勝者の裁判』ともいえないような、それに、『文明の裁判』には違いないけど、賞賛するほど『文明の裁判』ともいえないような。
裁判って、権力があるものが裁くのに決まっているので、勝者の裁判は、現実問題として文明国では当然のことです。場合によっては、権力を失ったものが、人民によって広場に引きずり出され、殴り殺しになることもありますが、これだと、勝者の裁判でも文明の裁判でもないけれど。このような裁判は、別に嫌いではないけれど、それほど褒められたものでもないような。
それから、東京裁判にはフイリッピン・インドの判事がいましたが、日本は、フイリッピン・インドには敗戦していなかったような。だから『勝者の裁判』の表現は、ちょっと違うようにも思います。
裁判って、権力があるものが裁くのに決まっているので、勝者の裁判は、現実問題として文明国では当然のことです。場合によっては、権力を失ったものが、人民によって広場に引きずり出され、殴り殺しになることもありますが、これだと、勝者の裁判でも文明の裁判でもないけれど。このような裁判は、別に嫌いではないけれど、それほど褒められたものでもないような。
それから、東京裁判にはフイリッピン・インドの判事がいましたが、日本は、フイリッピン・インドには敗戦していなかったような。だから『勝者の裁判』の表現は、ちょっと違うようにも思います。
ソ連邦終焉 ― 2008年12月25日
シベリア抑留 ― 2008年12月26日
(掲示板に書いた記事の転載です)
今日は、12月26日なので、それにちなんだ話題を一つ。
1956年、日ソ共同宣言(条約)が締結され、日ソ間の戦争状態が法的に終了した。通常、戦争が法的に終了したときに、戦争捕虜は釈放されて本国に帰還することになるが、ソ連に抑留されていた戦争捕虜は、ほとんどすべて1950年までに帰国しており、日ソ共同宣言が締結されたときには、戦争捕虜は一人もいなかった。しかし、戦争犯罪や一般犯罪で懲役刑を受け、引き続き受刑していたものが存在していた。日ソ共同宣言ではこれらの犯罪受刑者も日本に帰国することになった。
1956年12月26日、最後のシベリア抑留者を乗せた引き揚げ船「興安丸」が舞鶴港へ入港、ここに、シベリア抑留は終了した。
戦争捕虜達は、シベリアの中では、比較的温暖なシベリア鉄道周辺に抑留されたが、犯罪受刑者は、北極圏を含む極寒の地に抑留されることが多かった。しかし、1950年を過ぎると、日本人犯罪受刑者達は、ハバロフスク刑務所に集められるようになった。写真は、ハバロフスクで受刑していた元憲兵准尉・中村稲夫に留守中の家族が差し出した葉書。郵便料金は原則として無料だったが航空の扱いを希望したため、航空料金に相当する切手が加貼されている。中村稲夫はハバロフスクで抑留されているとき、脳溢血のために半身不随になり、早期送還で、昭和30年12月11日に引き揚げた。
この葉書は、ハーグ条約にしたがって、戦争捕虜に無料で配られるもので、犯罪受刑者に支給する条約上の必要は無いが、実際には犯罪受刑者にも支給されていた。手紙の文面を見ると「3ヶ月便りが無かったので心配していた」とあるので、通常は、1~2ヶ月に一度の割合で支給されていたようです。