本の紹介-シベリア抑留 栗原俊雄/著(岩波新書 2009.9)2010年01月02日




 岩波新書には近現代史を題材としたものがいくつもあり、それらは総じて内容がしっかりしている。しかし、この本は、厳密な歴史解説を目的としたものではなくて、一方的に「シベリア抑留では日本が苦労した」「日本は戦争の犠牲者だ」との印象を読者に植え付けることを目的としているように感じられる点が多々ある。
  
 
 具体的に、1点、指摘する。P173に以下の記述がある。
 
『国際法によって、捕虜が母国に手紙を出すことは認められている。しかし、ソ連がそれを許したのは抑留から一年以上が過ぎた一九四六年秋ごろであった。それもすべての捕虜が対象ではなく、ソ連側が「優良労働者」などと認めた一部の捕虜たちであった。同年から一九五〇年にかけて、シベリアから=五万通余のはがき、手紙が届いた。ソ連は、強制労働の現実や食料難、続出した死者など抑留生活の実態を記すことは許さなかった。現在残っているはがきを見ても、そうした窮状を訴えるものは全くない。』
 
 まず、この記述は、不正確である。
 『ソ連側が「優良労働者」などと認めた一部の捕虜たちであった』と書かれているが、俘虜収容所によって、運用が異なっており、①全員が差し出せた収容所②一部のものが差し出せた収容所③誰も差し出せなかった収容所 の存在が知られている。
 
 『ソ連がそれを許したのは抑留から一年以上が過ぎた一九四六年秋ごろであった』との記述も読者に誤解を与える恐れのある書き方である。
 
 戦争中、日本軍は日本軍人に捕虜となることを禁止していたため、捕虜となった日本軍人が葉書を差し出すことを日本は拒否しており、日本には俘虜葉書の制度は無かった。1945年11月16日、米軍支配地との間で「復員郵便」が開始された。すなわち、日本軍及び日本人の帰還に関する通信・安否の消息その他個人的性質の内容に限り、連絡が取れるようになった。しかし、これ以外の地域で、海外との郵便は禁止されており、ソ連との通信はできなかった。1946年9月10日、GHQが海外へ郵便葉書を差し出すことを認めた後、ソ連からの俘虜葉書も届くようになる。ソ連から最初の俘虜葉書は、1946年11月26日、東京港に入港したスモールヌイ号により届けられた。
 このように、俘虜葉書が終戦1年少々で届くようになったのは、占領による日本国内の民主化と国際関係の改善が原因だった。
 
 『強制労働の現実や食料難、続出した死者など抑留生活の実態を記すことは許さなかった』とある。誤りではないけれど、戦争を知らない人が見たら、誤解するかもしれない。戦争中の軍事郵便も、米国との間で認められた復員郵便も、個人的な内容のみ記載することが許されていた。軍の動向、組織、兵力を記載することが許されていた軍事葉書は存在しない。収容所の管理・運営・組織の記載が許されないのは、軍事葉書・俘虜葉書の決まりである。
 ただし、『現在残っているはがきを見ても、そうした窮状を訴えるものは全くない』と書くと、厳密には正しくない。ソ連からの俘虜葉書は量が多いので、検閲をかいくぐって、このような内容を書いたものが全く無いとは言えない。

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