本の紹介―日中戦争全史 下2017年11月01日

     
笠原十九司/著 『日中戦争全史 下 』高文研 (2017/7)
           
歴史学者、笠原十九司 による日中戦争の全貌を明らかにする渾身の著作。上巻と合わせて、日中戦争の全体像を詳述している。
下巻は、1938年以降。
日中戦争の解説では、陸軍の役割に焦点を当てているものが多いが、本書は、陸軍に加えて、海軍や天皇の役割にも着目しており、日中戦争の全体を詳述する記述になっている。

ロシア革命100周年記念2017年11月07日


2017年11月7日はロシア革命100周年記念日

本の紹介ー歴史教科書の日米欧比較2017年11月16日


薄井寛/著『歴史教科書の日米欧比較 食料難、移民、原爆投下の記述がなぜこれほど違うのか 』筑波書房 (2017/7)
     
 日本の歴史教科書と米・欧(おもにドイツ)の歴史教科書を比べて、近代戦争を中心に、記述の違いを解明。すなわち、米・欧の教科書では、食糧確保から侵略戦争を解明する傾向が強いのに対して、日本の教科書ではこの観点が非常に少ない。同様に、移民問題に対しても、米・欧の教科書では詳細に説明されるのに対して、日本の教科書では、ほとんど触れられていないという特徴がある。
 本書は、このような教科書記述の違いを明らかにすることにとどまらず、食糧問題と日本の侵略戦争、および日本の移民問題―海外移住―の詳しい解説をしている。
 さらに、米国教科書では原爆投下とその是非の両論を記し、日本人強制移住も詳しく扱っているなど、米国にとって暗い過去の歴史についても積極的に触れている事実が示される。このように、米・欧の歴史教科書では歴史の事実と解釈をありのままに伝えようとするのに対して、日本の歴史教科書では、日本の歴史の暗い部分をなるべく書かないようにして、明るく楽しい日本の歴史を提供する傾向があると指摘している。
    
 本腫には書かれていないのであるが、欧米の歴史教育と日本の歴史教育の根本的な違いとして、欧米の教育では、考えることに主眼が置かれるのに対して、日本の教育では暗記することに主眼が置かれていることに主因があるものと思う。米国の教科書では原爆投下に対して肯定的な見解と否定的な見解の両論併記の形がとられることが多い。これに対して、日本の教科書では、定説のみを記載し、両論併記は原則禁止されている。このような違いは、国家のあるべき方向性の違いに主因があるものと思う。
    
 ところで、本書のP58~P60に、終戦直後に、農民が食料供出を嫌がった原因の一つとして、旧日本軍が軍事物資を横流ししたことに対する反発を上げている。食料供出を嫌がった原因の一つに挙げることが妥当なのかははなはだ疑問である。しかし、旧日本軍が軍事物資を私物化したことは紛れもない事実であるにもかかわらず、日本ではこのことに触れることが少ないので、本書の以下の指摘は重要だ。
    
    
P58~P60
 敗戦直後から農民の意識が急変したのだ。それと同時に、米などの統制品の買出しが脱法行為だと承知のうえで、農村へ出かける市民が増え始める。銃後の規律を守ってきた入びとが、なぜその倫理感を一気に崩壊させたのか。一つの事件が引き金になったことを、当時の内務省の文書が明示する。それは軍幹部らによる軍需物資の「山分け」だった。
 軍需物資と政府所管物資の民間放出は、一九四五年八月四日の閣議で決定された。その後、八月二七日までの二週間、地方司令官などへの指示文書(一部は口頭示達)が一八回も発せられ、占領軍の接収対象になると予想された軍需物資が極秘裏に処分される。昭和天皇の玉音放送がおこなわれた八月一五日においてさえ、「戦争状態終結に伴う緊急措置の件」と題する極秘文書が関連部署へ発信され、兵器以外の軍需品・燃料・自動車表料・薬品等の物資を、陸・海・軍需省以外の省・地方機関または民間へ無償で払い下げることが指示された。この動きを察知したアメリカ軍は放出停止を厳命し、八月二八日の閣議は放出の中止と物資の回収を決めた。しかし、いったん始まった動きは止まらない。それどころか、物資の一部は地方自治体などへ払い下げられることなく、将校などの軍幹部の勝手な采配で分配されていく。その多くは組織的に隠匿、あるいはブローカーへ転売され、それが闇市場へ出回るという事態に発展していったのだ。
 早くも八月二七日、内務省は関係部署へ極秘文書で注意を喚起した。「地元民や兵士等へ無雑作に贈与するなど恣意的な物資の処分をなす者が少なくなく、……莫大な数量の物資が会社幹部等に隠匿または不正受給せられる事象も巷では噂され、……国民思想に及ぼす影響は注目を要する」。また、同文書は、「自動車部隊の将校が軍保有の自動車を横領して自動車会社を運営する」、「将校などの軍幹部が軍のトラックで食料などを自宅へ搬送する」など、無軌道きわまりない軍需物資の横取りの事例を列挙した。さらに、九月一五日付けの内務省文書は、物資放出の動向を次のように分析する。「(軍需物資の地元民や兵士への恣意的な処分、隠匿や不正授受など)無統制なる放出配分は戦後の混乱状態にさらに拍車をくわえ、特に一部軍、官、工場等の上層幹部の行動中には全く目に余るものありたる模様にして、一般国民に敗戦を当然視するの観念を与えたるやに看取せらる。しかもこれらの物資はいずれも久しきにわたり民需を極度に圧縮し、軍用ないし軍需資材として蓄積せられ、かつ目下、全国民の渇望し居るものなるため、一般国民に極めて大なる反響を与え、……農民の食糧供出意欲を著しく消磨せしめたり」。
 軍幹部と一部の官僚による物資の配分や隠匿のうわさは、全国各地へまたたく間にひろまり、軍と政府に対する国民の反発と怒りは頂点に達した。当時、長野県下に疎開していた作家の芹沢光治良は、「軍当局のとった処置の不当なのを憤る」地元の人の話しを聞いて、「その話では軍がまけるのが当り前だと思った」と、九月一日の日記に書いている。
 九月二四日の内務省文書(『軍需物資放出状況』)には、怒りの声が満ちてくる。「帰還兵士が多くの米や砂糖、毛布などをもらって帰っているが、こうしたことは、今まで不自由を忍び黙々と働いてきた一般国民の思想に大きな悪影響を与える。軍人はあまりに勝手すぎる」。多くの復員兵が列車から降りた某駅の助役はこう批判した。また、某県の県会議員は、「駐屯部隊が国家の資材を個人的感情によって無統制に配分したことにより、過去において軍の横暴を我慢していた国民が、その数々の鬱憤を何かの機会に晴らさなければならない、との感情をいっそう強めることになった」と述べた。
農民の声も各県警察署から内務省へ報告された。「今まで自分たちの不自由を忍んで一生懸命に米を供出してきたが、これを軍関係者だけが勝手に処分するのなら、もう今後は供出なんかできない」。軍需物資の放出を供出拒否の理由にする。こうした動きが農民の間にひろまった。
 アメリカ軍との本土決戦に備え、軍部が蓄えた物資の総額は一〇〇〇億円とも、二四〇〇億円ともいわれる。当時の国家予算の一~二年分にも相当する膨大な額だが、その真相は明らかでない。GHQ経済社会局の顧問もつとめた歴史学者のセオドア・コーエンは、「戦争末期に残された大部分の軍需物資は、たんに盗まれてしまったということである。これはおそらく国家が持っているものを市民が盗んでいった例としては、近代に入ってから最大の例であろう」と指摘する。
 一九五六年発行の高校『日本史新版』(清水書院)は、「国民は、まずその日の食に困り、都会にはヤミ市が発生し、買出しなどもおこなわれ、混乱に乗じて隠匿物資の横領や掠奪がおこなわれ、悪質な犯罪も横行した」と書いた。しかし、この記述は例外的で、戦後七〇年間、ほとんどの教科書は、米の供出拒否や不法な米の買出しなど、農家と市民の倫理観を崩壊させた、軍幹部らの軍需物資の隠匿や横領について一言も触れていない。
    
    
P152に水戸市の内原郷土史義勇軍資料館に復元されている青少年義勇軍(満州開拓団)訓練所の写真が掲載されている。そのうち、見学に行こうと思います。

本の紹介―奄美の奇跡2017年11月22日

  
永田浩三/著『奄美の奇跡 「祖国復帰」若者たちの無血革命』WAVE出版 (2015/7/17)
  
著者はNHKディレクター・プロデューサーとして、主に社会派番組の作成を担当した後、NHK退職後は武蔵大学社会学部教授となる。
本書は、終戦後、米国の支配になった奄美群島が沖縄・小笠原に先駆けて早期に日本復帰を果たした復帰闘争の経緯を記す。
  
 戦争中、沖縄本島は日米の戦場となり、米軍の軍事占領を経て、米軍の支配になった。これに対して、鹿児島県奄美群島は戦場となることもなく、終戦まで、米軍の進駐もなかった。しかし、戦争終結からだいぶたった1945年9月22日に、米軍がやってきて、琉球の一部として、本土から切り離されて、米軍の支配となった。米軍は、占領当初、奄美・沖縄・宮古・八重山をそれぞれ分けて統治していたが、1951年4月1日、琉球臨時中央政府が作られ、1952年4月1日には琉球政府が作られ、奄美は琉球として沖縄とともに統一して支配されることとなった。
 江戸時代以降、奄美は琉球の一部ではなくて鹿児島県に属していたことや、戦場にならなかったにもかかわらず、終戦後暫くしてやってきた米軍に支配されたこともあって、奄美では占領当初から根強い本土復帰運動が起こった。
  
 本書では、奄美復帰運動の中核を担った青年たちを中心に復帰運動の詳細を解説する。奄美には戦前からアナーキストの運動があり、また戦後には共産主義運動が活発化したため、これらの人たちが記述の中心となっている。奄美連合総本部・復帰対策委員会の初代委員長を務めたロシア文学者・昇曙夢の記述もあるが、少ない。
   
 復帰運動を担った青年たちの記述が詳しいが、個人の伝記として読むのならばともかく、奄美が早期に本土復帰を果たした歴史的経緯を知りたい目的で読むには、個人の活動記録が煩雑すぎる。
    
 なお、復帰闘争以外に、1945年9月21日に徳之島に上陸したカンドン大佐以下10名の米軍使節と奄美大島守備司令官・高田利貞少将との間で、武装解除命令文書の文言で一悶着があって署名が翌日になったことや、翌年の2月2日に甘味が日本から分離された「二・二宣言」、さらには高田旅団の多田主計大尉による物資の横領などにも触れられている。
 巻末には、奄美占領から本土復帰に至る年表が掲載されており、歴史の経緯を簡単に理解するうえで便利。

本ー安龍福の供述と竹島問題2017年11月23日

   
下條正男/著『安龍福の供述と竹島問題』島根県総務部総務課/ハーベスト出版 (2017/3)
  
 著者は島根県の竹島問題研究会座長を務める拓殖大学教授。このため、著者の主張は島根県のホームページやpdfファイルなどに公開されているものが多い。本書は30ページ余りの小冊子で、17世紀末に日本に来た安龍福の供述を解説するもの。無料で読める内容を超えるものではないので、本書をわざわざ購入する必要性は全くないだろう。
 安龍福の供述には、ほら話が含まれていることは確実だが、だからと言ってすべてが嘘だというわけでもない。このため、安龍福供述については、他の資料を基に、事実とそうでないことを分ける必要がある。しかし、本書は、そのようなことはせずに、一部に真実でないことがあるとあげつらうことによって、あたかもすべてが虚偽であるかのような印象操作をしているように感じられる。でも、それが著者の出版の目的なのだろうから、それはそれでも良いことだろう。
  
 しかし、不正確な言葉使いで、自説をごり押ししているように思える記述が散見される。
 2か所、指摘する。
  
 本書、P20に「安龍福の地理的理解は正確ではなかったようです。・・・鬱陵島と松島の間は五十里(約200キロ)であったとしたことにもあらわれています。・・・鬱陵島から松島にはその日のうちに到着したとしているからです。・・・小舟で約200キロあるとした鬱陵島から松島に、その日のうちに着くのは、物理的に不可能に近い・・・」と書かれている。村上家文書には「安龍福申候・・・竹嶋と朝鮮之間三十里竹嶋と松嶋之間五十里在之由申候」とあるので、安龍福が日本で、鬱陵島と松島の間は五十里であったとしたことは正しいのだろう。しかし、約200キロはどこから言えるのだろう。日本では1里は4キロであるが、中国・朝鮮では0.4~0.5キロと日本の十分の一程度をいう。村上家文書の記述が安龍福の証言を書き留めたのか、日本の里程と朝鮮の里程を換算した数値を書き留めたのか、この点を明らかにすることなく、唐突に200キロとしている点は、まじめに歴史を見る態度とは思えない。
  
 P29には「安龍福は日本の漁民が松島に住んでいると証言しました。当時、竹島には人が住んでいたのでしょうか。」と書かれている。現代日本語で「住む」というと、そこに住民票を移して最低でも数年間住み続けることをいうかもしれない。しかし、漢文で有名な李白の詩の一節「両岸猿声啼不住」の「住」は現代日本語の「住む」という意味ではなくて「停止」するという意味である。また、現代中国語ではホテルに一泊することを「住宿」と言う。このように、当時、竹島に現代日本語の意味で人は住んではいなかったけれど、漢文や現代中国語の意味で、竹島に人が住んでいた可能性は十分にある。

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