ホームページ更新2018年01月08日

 明治二年(一八六九)、明治政府が三六町の一里に統一される以前には、さまざまな「里」が使われていました。陸と海、平坦な道と山地、地域による違い、時代による違いなど様々な要因がありました。竹島問題を論じる場合は、隠岐地方での一里の長さがどれだけであったのかを知ることは有用なことです。
 そこで、以下のページに、隠州視聴合記(1667年)における里程の記述を見ることにより、一里≒2㎞であることと、長久保赤水『新刻日本輿地路程全図』(1791)では、隠岐と美保関の距離から、一里≒1.8㎞であることを記載しました。

http://nippon.nation.jp/Takeshima/Ullundo/40Ri.htm


竹島(独島)問題はこちら。
http://nippon.nation.jp/Takeshima/index.html

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