謹賀新年 ― 2018年01月01日
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
2018年元旦
本年もよろしくお願い申し上げます。
2018年元旦
本の紹介ーニッポンのサイズ ― 2018年01月07日

石川英輔/著『ニッポンのサイズ 身体ではかる尺貫法』(2012.1)講談社文庫
計量単位はメートル法による、SI単位系の使用が原則義務付けられている。長さはメートル、質量はキログラム、時間は秒、電流はアンペアを基本とする。日本でメートル法が実施されたのは明治中ごろであるが、実際に普及するのは戦後になってからである。それ以前は尺貫法を基準とする単位が使われていた。
本書はメートル法以前に日本で使用されていた計量単位の解説。
長い距離の単位は「里」が使用されていた。明治24年に1里=約4kmと定められる以前には、日本においても様々な「里」が使用されていた。この間の事情については、第11章に詳しい。「里」の理解のために大変参考になるので、最後に主要部分を記載しておく。
日本の領土問題のうち、韓国が領有している竹島・独島について、島根県の竹島問題研究会座長を務める下條正男・拓殖大学教授は史料の恣意的解釈が多く、またしばしばその所説を変更するなど問題が多いことで知られている。(坂本悠一『社会システム研究』2014年9月参照)
下條氏の著書『安龍福の供述と竹島問題』P20には、「安龍福の地理的理解は正確ではなかったようです。・・・鬱陵島と松島(現在の竹島)の間は五十里(約200キロ)であったとしたことにもあらわれています。・・・鬱陵島から松島にはその日のうちに到着したとしているからです。・・・小舟で約200キロあるとした鬱陵島から松島に、その日のうちに着くのは、物理的に不可能に近い・・・」と書かれている。鬱陵島と竹島の距離は約90㎞なので、帆船の順風時の船速4~5ノットとすると、10時間程度で到着することになり、「その日のうちに到着したとしている」安龍福の供述は現実と合致する。下條氏は明治中期以降に定められた1里=4キロメートルを当てはめて、200キロメートルであると即断して、「その日のうちに着くのは物理的に不可能に近い」と判断したのだろうか。
本書は講談社文庫という一般人を対象とした書籍であるが、この程度の教養さえあれば、下條氏でも、もう少しまともな本が書けたのではないかと思うと、残念である。
(参考)
ニッポンのサイズ 第11章 一里という距離(P116~P123)
(一部省略)
長い間、日本人が慣れ親しんできた距離の単位の「里」は、もともとは古代中国の周にはじまる面積の単位だった。周代の一里は、一辺が三〇〇歩つまり一八〇〇尺の正方形だったから、この一辺の長さが「里」として独立して長さの単位となった。一辺一里の正方形の面積を同じく一里と呼べば混乱しそうだが、昔の人は別に困らなかったらしく、距離の単位として普及した。
この場合の一尺を、カネ尺のもとになった三〇センチに近い長さとすれば、周代の一里は、五四〇メートルぐらいの距離になる。歩いて五分ぐらいなので手頃だったせいか、中国では古代から、この五五〇メートル前後の一里を距離の単位として長い間使ってきた。
しかし、公式の単位として決まったのは清朝になってからで、清朝の一里は、五七八メートル。ほぼ同じ時代の李朝の一里も、五五〇メートルぐらいだから、いちいち精密な測量をしなければ、同じ距離といっていいだろう。中国の国民党政府では、きりの良いところで五〇〇メートルを一里とした。だが、この「新一里」が広大な中国でどこまで普及したかはわからない。
日本でも、律令制度ができる前から、五町の一里と六町の一里があった。この場合の一町は六〇間で約一〇九メートルだから、五町は約五四五メートル、六町は約六五四メートルだ。六町の一里がもっとも一般的だったが、実測して距離を決めるのではなく、歩く時間や旅行の日程から割り出した数なので、五町の一里でも六町の一里でも、実質的には大差なかったそうだ。
このように、東アジア漢字文化圏の一里は、長い間、五〇〇メートルと六〇〇メートルの間ぐらいの距離が普通だった。
千葉県東北部の海岸として有名な九十九里浜は、北の刑部岬から南は太東崎まで約五六キロメートルあるが、五町を一里とすれば一〇四里。鎌倉の七里ガ浜は、約四キロメートルなので、七・四里。いずれも、九十九や七のように語呂や縁起の良い数におきかえて地名にしてあるが、でたらめな数値でないことがわかる。
三六町の一里
われわれが親しんでいた一里一時間の一里は、この六倍つまり三六町だったが、昔の日本にはいろいろな一里があった。なぜ多くの種類ができたかというと、里を距離の単位というより、徒歩の旅にかかる労力を表す数字として使うようになったからである。
山坂の多いコースなら短い距離を一里とし、平坦なコースなら長い距離を一里としたほうが、実際に旅をする人にとって労力の見当がつけやすい。具体的にいうなら、三六町の一里の距離は、七二町の一里の半分しかないが、平均して二倍の時間がかかる道に使えば、同じ里数ならどこでもほぼ同じ時間で行き着ける。そのため、地形の複雑なわが国では、地方によって、三六町里、四〇町里、四八町里、五〇町里、六〇町里、七二町里などさまざまな里ができた。
『単位の歴史辞典』(小泉袈裟勝編著)によると、江戸時代には、平坦な山陽道が七二町里、難所の多い東海道、中山道が三六町里、伊勢路が中間の四八町里というように、街道によって使い分けていた。この場合、一里は一定の距離を表す単位ではなく、街道によって違う旅程の区切りを示す数だったが、そういう慣行を認める一方で、徳川幕府は、慶長七年(一六〇二)に三六町を一里と定める布令を出した。
明治二年(一八六九)、明治政府は慣行としてのさまざまな里を廃止して、三六町の一里だけに統一し、明治二四年(一八九一)の度量衡法では、一里=三六町=一万二九六〇尺=43,200/11メートルと決めた。計算すると、三・九二七キロメートル、大まかにいって四キロメートルのこの一里こそが、私がかつて親しんだ一時間で歩ける一里だった。
昔の時間なら半刻で一里というところで、このあたりが人間サイズの単位のなじみやすさなのだろう。私は今でも、はじめての場所へいく時など、地図を見ながら一キロメートル一五分ぐらいで所要時間の見当をつけて、タクシーにのるか歩くかを決めるが、本当に身にしみついているのは一里一時間の感覚である。(以下省略)
ホームページ更新 ― 2018年01月08日
明治二年(一八六九)、明治政府が三六町の一里に統一される以前には、さまざまな「里」が使われていました。陸と海、平坦な道と山地、地域による違い、時代による違いなど様々な要因がありました。竹島問題を論じる場合は、隠岐地方での一里の長さがどれだけであったのかを知ることは有用なことです。
そこで、以下のページに、隠州視聴合記(1667年)における里程の記述を見ることにより、一里≒2㎞であることと、長久保赤水『新刻日本輿地路程全図』(1791)では、隠岐と美保関の距離から、一里≒1.8㎞であることを記載しました。
http://nippon.nation.jp/Takeshima/Ullundo/40Ri.htm
竹島(独島)問題はこちら。
http://nippon.nation.jp/Takeshima/index.html
そこで、以下のページに、隠州視聴合記(1667年)における里程の記述を見ることにより、一里≒2㎞であることと、長久保赤水『新刻日本輿地路程全図』(1791)では、隠岐と美保関の距離から、一里≒1.8㎞であることを記載しました。
http://nippon.nation.jp/Takeshima/Ullundo/40Ri.htm
竹島(独島)問題はこちら。
http://nippon.nation.jp/Takeshima/index.html
小石川植物園 ― 2018年01月17日
本の紹介―清朝の興亡と中華のゆくえ ― 2018年01月21日

岡本隆司/著 『清朝の興亡と中華のゆくえ』講談社 (2017/3)
清の成立から滅亡までの政治史を年代を追って説明。詳しい。
明の滅亡に秀吉の朝鮮出兵が関係しており、清の滅亡には日清・日露戦争が関係している。このため、本の最初と最後の方には日本との関係もあるが、全体としては多くはない。
ホームページ更新 ― 2018年01月23日
尖閣問題のページに「冊封と閩人三十六姓」を作りました。
http://nippon.nation.jp/Senkaku/Rekishi/Binjin/index.html
琉球は明・清を宗主国とする藩属国だったこと、および、中国・琉球間の航海は明の福建から渡琉した人たちによって担われてきたことを書きました。
中世、琉球は中国のみならず、シャム・マレイ等とも活発な交易をしていて、そのための船は明からもらったもので、船舶の修理も明に依存しており、航海技術も福建出身者によって行われていました。今後、このことをもう少し書き足します。
琉球は明・清の藩属国だったため、観念的には、琉球は中国の領土でした。大陸と琉球の中間にある尖閣諸島は中国の内部にあるので、中国の領土でした。日本が声高に「尖閣は日本固有の領土」などと言っても、とても受け入れられない主張です。
尖閣の領土問題は以下をご覧ください。
http://nippon.nation.jp/Senkaku/index.html
北方領土問題は以下をご覧ください。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Yasashii.htm
竹島の領土問題は以下をご覧ください。
http://nippon.nation.jp/Takeshima/index.html
仁和寺と御室派 ― 2018年01月29日

東京国立博物館で開催中の「仁和寺と御室派のみほとけ」展を見学しました。葛井寺の千手観音像を見たかったのだけれど、なかった。これは、2月14日以降の展示だそうです。
本―防人の島「対馬」が危ない! ― 2018年01月31日

日本会議地方議員連盟/編集『防人の島「対馬」が危ない!』 明成社 (2009/4)
五十数ページの薄い本。本の内容には少々あきれた。対馬の過疎化・高齢化以上に、地元議員の劣化が進んでいるのだろうか。
対馬は朝鮮半島に近いので、近年韓国人観光客が増大している。しかし、対馬の人口はS35年には7万人程度だったのに、現在では3万人程度と大幅に減少し、また、高齢化も進んでいる。
本書は、日本会議の地方議員を中心に、対馬が韓国に奪われる危機であることを解いて、特別立法が必要であることを主張するもの。対馬では、韓国資本が観光開発に入り、一部の土地を買っていることは事実だ。人口減少と韓国人観光客の急増により、島内には韓国人がいて、ハングルの掲示板を見かけることも事実だ。このため、国土防衛上好ましくないと考える気持ちもわからないではない。
国境の町は、国境貿易・交流を通じて発展してきた。江戸時代の対馬も朝鮮と日本の交流の拠点として潤っていた。このように考えると、過疎地の対馬が韓国人観光客によって活性化することは好ましいことだ。また、韓国資本が投入されて、観光開発がなされることも、国境の町の発展には好ましいことと言える。
しかし、本書では、韓国人観光客の増大と韓国資本によって国境の町が乗っ取られるのではないかと危機意識を主張している。日本人住民が減少して、韓国人住民が増加すれば地方自治・国境防衛に問題が生じる可能性はあるが、観光客と住民とは異なるので、本書の主張は、少々的外れな感じがする。もっとも、気付いたときには手遅れとならないように、国家防衛を早手回しすることは必要なことで、そのために、危機意識を誇張しているのならば、それは理解できる。
ただし、本書の主張する対策はお粗末で情けないものだ。日本の離島では、小笠原・奄美・沖縄に対して復興特別処置法があるので、類似の法律を対馬にも作るように求めている。しかし、小笠原・奄美・沖縄は終戦後占領された地域が日本に復帰したために、特別処置法が制定されたものであるのに対して、対馬は一貫して日本の領土なので、小笠原・奄美・沖縄の例は参考にならない。また、本書の最後に特別処置法の制定を求める長崎県神道議員連盟会長の要望が記載されているが、これによると、要するに「現在実施されている離島振興の枠を超えた抜本的な各種施策」を求めているもので、具体的な中身が全くない。常識的に考えたら、対馬の振興は、韓国資本を導入して、韓国人観光客を増やすことだ。これを否定しながら具体策もなく「なんとかして」と言っても、難しいだろう。地元の振興策は、地元を一番よく知っている、地元議員が具体策を練らない限り、話は進まない。
戦前・朝鮮半島との交通の拠点として栄えた敦賀は、戦後になって、その機能が失われると、一気にさびれてしまった。そのような状況を立て直すために、敦賀市は原発を積極的に誘致して町の発展につとめた。特に危険と思われていた『もんじゅ』も敦賀に作られた。敦賀の例を参考にすれば、韓国人観光以外の方法で対馬が発展するためには『高レベル放射性廃棄物最終処分場』の誘致が現実的な解決策だと思う。そうすれば、韓国人観光客も減るだろう。ところが、対馬市議会は2007年に誘致反対の決議をしている。「あれもだめ、これもだめ、対策はないので何とかしてくれ」では情けない。