本ー殉教の遺書・・・詐欺寺首謀者の弁明2018年10月16日

  
西川義俊/著『殉教の遺書』東宛社 (2001/1)
  
 700ページを超える大書。
 1986年、真言宗醍醐派の阿闍梨となった著者は、翌年、茨木県大子町に真言宗醍醐派・本覚寺を建立し、ここを拠点に大規模な霊視詐欺を行った。本書は、詐欺首謀者による弁明。著者の西川義俊には懲役6年が確定した。
 一審で懲役判決が出た後の、控訴趣意書の補充書が本書のメイン。本書に記載された内容は、有罪が確定した犯人の主張であり、判決ではほとんど退けられたものであるため、一般に言えば「虚偽」であるので、事実が書かれたものとして読むことはできない。なお、本書には付属資料として、一審判決書、控訴趣意書、検察による答弁書が掲載されている。
  
 西川義俊は真言宗醍醐寺で修業して阿闍梨になると、真言宗醍醐派の末寺として本覚寺を建立した。彼は宗教法人を持っておらず、個人で寺を作ることはできないので、醍醐派の末寺としたのだろう。常識的に考えたら、檀家もいない末寺を山の中に作ったところで、経営が成り立つはずはないので、寺を建てる理由に対して、醍醐寺が何も疑いを持たなかったとしたら驚きだ。醍醐寺は末寺ができて儲かることだけを考えていたのだろうか。まさか、詐欺を知っていて推進したわけではあるまい。
 その後、西川義俊は独立宗教法人を手に入れると本覚寺は醍醐派を離れた。醍醐派が破門したとか、けんか別れしたとか、そういうことではなくて、本覚寺の離脱に際して、醍醐派座主や宗務総長・仲田順和の祝辞があったことが、本書に示されている。本覚寺は醍醐派を離れた後も、詐欺僧侶の修行等で醍醐寺との関係は続いた。西川をはじめ全教師の僧籍は醍醐寺に残されたままだった(P365)。
 西川義俊は宗教法人・明覚寺を作り明覚寺グループで詐欺を続ける。一方、本覚寺が週刊誌等で「霊視詐欺」として批判されると、詐欺僧侶たちは本覚寺を放棄して明覚寺や関連寺院に移り、詐欺を繰り返した。
  
 一審判決では、西川被告や詐欺僧侶らは、「悩み事を解決する霊能などないのに、その霊能があるかのように装って、相談者に先祖の霊が取り付いており、供養料を支払ってこれらの霊を成仏させれば、悩み事が解決できる旨嘘を言って欺き、内金を受けとり、さらに後日、金を振り込ませた」ことが、詐欺と認定された。
 西川被告は霊能とは加持祈祷の能力のことで、明覚寺は醍醐山伝法学院を卒業して阿闍梨となったもの十五名、醍醐寺特別伝授会で四度加行を修し伝法灌頂にて阿闍梨となったもの約十五名、明覚寺で阿闍梨となったもの約二十五名の合計約五十五名の阿闍梨を要する宗教団体(P371)なので、霊能を有していると主張した。しかし、相談者には霊視的能力があるかのように装っていたとの理由で、西川被告の主張は退けられた。
  
 本覚寺・明覚寺の詐欺では、相談者から、その日のうちに金をとっているケースが多い。この点について、西川被告は、もともと祟っているのではないかと心配している人が相談に来ているので、供養を勧めたと主張している(P379)。「いのうえせつこ」の本によると、霊視商法の取材の中で会った主婦たちの多くは「生長の家」や「真如苑」などの新興宗教と呼ばれる信者たちだったとのことなので、西川被告のこの主張は事実なのかもしれない。
  
 ところで、西川被告は「当派の阿闍梨はすでに述べた如く、最低二年の厳しい修行をさせて伝法灌頂に入れているので、すぐに四度加行を形だけ修業して住職資格をとる者に比べて、ずっと質の高い者である」と書いており、阿闍梨になること自体はたやすいとの認識はあるのようだ。

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