本の紹介-東電原発事故 10年で明らかになったこと2021年04月02日

 
添田孝史/著『東電原発事故 10年で明らかになったこと』平凡社新書(2021/2)
 
著者は大阪大学基礎工学研究科修士修了の科学ジャーナリスト。
本書は、福島原発事故10年が過ぎて明らかになった、これまでの東電のずさんな事故対策を明らかにするもの。
 
第1章は福島原発事故のあらまし。すでに、良く知られていることなので、読み飛ばしても良いだろう。
第2章が本書の中心で、ページ数も多い。事故前に、津波の可能性が指摘され、女川原発や、東海第2原発なででは、それなりの津波対策をしていたにもかかわらず、東電だけが津波対策を故意に怠っていた事実を明らかにしている。
第3章は原発事故裁判の話。政府・東電が事故に真摯に向き合うことなく、言い逃れに終始している実態が示される。
第4章はまとめや今後の話などであり、ページ数は少ない。
 
本書を読むと、如何に東電の対応が悪かったか、さらに事故後も対応が悪いのかが、良く分かるだろう。福島原発事故は予期しえない自然災害などではなく、東電の故意犯に近いように感じる。

本の紹介-ルポ「日の丸・君が代」強制2021年04月04日

 
永尾俊彦/著『ルポ「日の丸・君が代」強制』緑風出版 (2020/12)
 
著者は、元・毎日新聞記者で、現在はルポライター。
石原慎太郎知事時代の東京都や、橋下徹知事時代の大阪府であった、公立学校行事や公立学校教師に対する日の丸・君が代の強制の実態が詳述されている。

本の紹介-菩薩とはなにか2021年04月05日

 
平岡聡/著『菩薩とはなにか』春秋社 (2020/7)
 
著者は京都文教大学学長を務める仏教学者。
菩薩は大乗仏教を特徴付ける最も重要な概念であり、日本でも如来と同等かそれ以上に信仰されている。
本書は、大乗仏教における菩薩の「願」「行」「階位」を主に経典に基づいて説明し、さらに、中国や日本における菩薩信仰についても触れている。
他書の引用や、サンスクリッド語の単語が示される個所があるなど、専門的な内容が多いので、ある程度の仏教知識がないと読みにくい。
 
『菩薩』とは何であるか。おおよその雰囲気はたいていの日本人ならば知っているだろう。しかし、仏教学者による専門的知見として、菩薩を専門に取り扱った本を、これまで読んだことがないので、大乗仏教の信仰とはどのようなものであるのかを知るうえで、大いに参考になる。

本の紹介-浄土思想入門2021年04月08日

 
平岡聡/著『浄土思想入門 古代インドから現代日本まで』(2018/10) 角川選書
 
 仏教学者による浄土思想の一般向け解説書。仏教学者による解説であるため、荒唐無稽な念仏のご利益を解いたり、個人の信仰心の告白本ではなく、客観的事実を説明するもの。
 内容は、インド仏教・インドの浄土思想・中国の浄土思想・法然以前の日本仏教・法然の浄土思想・親鸞の浄土思想・一遍の浄土思想・明治以降日本の浄土思想。このうち、法然以降が全体の半分なので、内容的には、インド・中国の話が薄く、法然・親鸞・一遍の話が多い。
 インドで起こった大乗仏教は、釈迦の仏教からはずいぶん離れているが、浄土思想は、それに加えて、中国・日本で大きく変質した。本書には、大きな変質点が書かれており、浄土思想を歴史的に正しく理解するうえで有益だ。なお、法然の浄土教に対しては明恵の批判が有名だが、これについては、本書ではほんの少し触れられている。
 
 浄土真宗の正信偈には「天親菩薩造論説 帰命無碍光如来」と、世親が浄土教理論の創設者としてたたえられている。しかし、世親は瑜伽行唯識学派の学僧なので、法然や親鸞の浄土教とどのようにつながるのか疑問だった。
 本書によると、世親の浄土教は曇鸞によって、改変されたそうだ。
 浄土に往生する方法や往生自体を曇鸞はどう考えたのか。世親は五念門の修習を往生の要件とするが、曇鸞はこの思想を受け継いではいない。・・・(曇鸞の止観理解は)まったく本来の意味から外れているのだ。こうして、世親が『往生論』で展開した、止観を中心とする鍮伽行唯識の自力的側面はすっかり削ぎ落とされ、代わって信仏や聞名などが往生の因として顔を出す。このように変容したのは、曇鸞が喩伽行唯識の教理を理解していなかったこともあるが、曇鸞が生きた時代背景を考慮すべきであろう。彼の時代観は「無仏の世/五濁悪世」であり、これを克服するには従来の自力解脱型の仏教ではなく、他力救済型の新たな仏教が必要と感じ、自力と他力の混合からなる『往生論』から自力の要素を排除し、純粋な他力の立場で『往生論』を解釈しなおした。このようにインド撰述の世親の『往生論』は中国に将来され、漢訳されて曇鸞の解釈を経ることにより、自力的要素は排除され、日本人に馴染みの深いの浄土教へと変貌を遂げる大きな一歩を踏み出した。(P74,P75)
 曇鸞のほか善導など中国浄土教僧侶により浄土教は恣意的改変がなされた。日本でも、法然・親鸞と浄土教は恣意的改変がなされている。釈迦の教えに恣意的改変を施すことは、きわめて不謹慎との見解もあるだろう。この点について、著者は以下の見解を示している。
(仏教教義を恣意的に解釈する)仏教者の態度を、古くは津田左右吉が痛烈に批判した。その典型は『無量寿経』の「十念」を善導が「十声」と解釈した例である。この改読により浄土教は劇的に変容してしまったが、これも含め、津田は「故意の改作と錯誤との二つのみちすじが考えられるが(中略)、彼等の尊重する経典そのものに対しても、彼等みずからのしごととしても、極めて不忠実な、恣な、また甚だしく不用意な、しわざであつたに違ひない」と言う。

 これに対して、我々はどう応えるべきか。
 仏教は苦からの解脱を目指す宗教だ。苦の本質は同じだが、その苦を感じている人間は固有の時代性と地域性の中で生活しているので、苦からの解脱の方法もその時代性と地域性とを意識して、カスタマイズ(時機相応化)する必要がある。だから時代とともに教法が変容するの必然だ。「時機相応」は浄土教の専売特許のように聞こえるが、実は仏教自体が時機相応の教えであり、浄土教はその典型例に過ぎない。平安末期から鎌倉初期にかけての浄土教は末法を強く意識して教えを説いたが、明治期以降はほとんど末法は意識されず、それに代わって西洋から将来された科学的思考に基づいて浄土教が理解されていることからも首肯されよう。(P230~P232)
 仏教学者であり浄土宗の僧侶である著者には、これ以外の見解はないのだろう。しかし、それならば、仏教を標榜するのはやめて新興宗教を布教する方がよっぽど潔いように感じてしまう。

 浄土教は「あの世」を対象としているので、「この世」を対象とする自然科学と矛盾することはない。しかし、自然科学に親しんでいる現代人の多くにとって、死後の世界のご利益を解かれても、あまり関心が持てないと思う。そうした中、浄土教の現代的な意義は何なのだろう。本書の終章には著者の思いが書かれている。著者は「人生に意味はない」としたうえで、浄土教を人生を意味あるものとしての物語と位置付けている。著者は仏教学者であると同時に浄土宗の僧侶でもある。仏教学者としての浄土教と、法然を宗祖とする浄土教とを融合させる手法として、このような考えに至ったものと思う。
 「人生は意味がある、浄土や阿弥陀仏は心の問題」と理解することも、現代人には違和感がないと思うが、それだと、法然流の浄土教ではなくて、世親の浄土教に近くなるか。

本の紹介-インド哲学10講2021年04月18日

 
赤松明彦/著『インド哲学10講』岩波新書(2018/3)
 
根源的存在と個々の存在の関係を、インド哲学ではどのように考えられていたのかを中心に、各々の哲学者の説を説明する者。新書なので、それほど深い内容はないが、インド哲学の考え方の「さわり」程度ならば理解できたような気がする。

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