本の紹介-シベリア抑留者たちの戦後2015年08月03日


シベリア抑留を考えるうえで、重要な知識が得られる本。

富田武/著 『シベリア抑留者たちの戦後: 冷戦下の世論と運動 1945-56年』 人文書院 (2013/12)

 シベリア抑留関連書籍の多くは抑留苦労話であるが、本書はそういった本とは異なり、抑留体験者が日本に帰国した後に、日本においてどのような状況になったかを説明するもの。一般啓蒙書ではなくて研究書であるが、研究成果を纏めたものというよりも、研究成果の一部を執筆したものだろう。
 シベリア抑留者の帰国は、米ソ冷戦の時期であり、日本国内では占領軍や政府によるレッドパージ(共産主義者の公職追放)が吹き荒れていた。一方、ソ連ではシベリア抑留者に対して、共産主義教育が施されていたため、シベリア抑留帰国者の中には共産主義を日本で広めようとしたものもあり、占領軍・政府は帰国者を敵視した。

 本書は次の4つの章からなる。
  第一章 シベリア抑留概観
  第二章 抑留報道と帰還者運動
  第三章 共産党と帰還者運動
  第四章 シベリア抑留者群像
 第一章は本書を読むにあたっての予備知識としてシベリア抑留概観が示される。シベリア抑留を客観的に解説しており、また、先行するシベリア抑留研究へのコメントもあるため、記述は簡潔であるが、読む価値は大きい。すでに、シベリア抑留関連本を多数読んだことのある人にとっても、本章を読んで欲しいと思う。ただし、あくまでも研究書であり、抑留苦労話物語ではないので、気楽な気持ちで読むと意味が分からない。
 第二章には、菅季治の国会喚問が詳しい。当時、GHQ・政府は共産党弾圧をもくろんでいた。このため、保守政党は共産党の徳田委員長がシベリア抑留期間を邪魔していると宣伝しようとして、シベリア抑留のときに通訳を務めた菅季治を追い詰めて、自殺に追い込んだ。
 第三章は、私としては、あまり興味がない話題です。
 第四章は、数人のシベリア抑留経験者を取り上げ、その後の個人の歩みが示される。シベリア抑留帰還者の全体像が分かるものではないが、シベリア抑留を考える上で、参考になる。

 シベリア抑留の本と言うと、これまでは、ソ連によって不当に苦労させられたとの内容の物がほとんどだった。実際は、そんなに単純ではい。抑留者の死亡の80%は初年に集中しているが、これは、単に寒さに慣れていなかったと言うだけではなく、抑留者の管理が日本将校に任されたため、日本の将校が兵士に食料を渡さないことによる栄養失調も死亡原因の一つである。また、将校への態度が悪かったために殴り殺した例なども知られている。抑留2年目になると、将校による管理はなくなったので、以後、死亡者は大きく減った。しかし、こんどは、共産主義に感化されたものによる管理になったため、報復による吊るしあげが横行した。
 以前は、このような抑留実態について、語られることは少なかったが、抑留帰還者の多くが高齢になったため、近年では、抑留実態が徐々に明らかにされている。本書も、こうした、日本の状況の中で書かれた本であり、シベリア抑留の全体像を知る上で、大いに参考になる。

 なお、P57に俘虜郵便の説明として (カタカナ書き以外は禁止) 「疑わしいほどに画一的な調子」とあるが、これらは事実に反する。実際の俘虜郵便を見れば分かることだが、カタカナ書きのものよりも、漢字かな書きのもののほうが多い。それから、俘虜郵便は私信であるため、個人的な事情が書かれており、画一的な調子ということはない。

 興味ある記述があったので転記しておく。
 (シベリア抑留は、1945年8月)16日にスターリンが北海道北半部の占領を要求したことを、18日にトルーマンが拒否したために捕虜のソ連移送に変更したという解釈があるが、公文書による裏付けがない。それに、ソ連はすでに二四〇万ものドイツ人捕虜等を領内に移送、留置して、生産や都市の復興の労働カとして「賠償」の位置づけで使役していたから、日本人捕虜のソ連移送も当然視していたはずである。しかもソ連は、先の「和平仲介要綱」に「賠償として、一部の労力を提供することに同意す」とあることを、諜報機関を通じてつかんでいた可能性があるだけに、なおのことである。(P15)
「民主運動」ーハバロフスク地方を中心に
 ハバロフスクでソ連内務省コヴァレンコ少佐の指導のもと、『日本新聞』が発行された。欄外には「新聞は日本人捕虜のためにソ連で発行される」とロシア語で記され、初期は「編集長I.I.コヴァレンコ」の名もあった。編集陣には宗像創(肇)、小針延次郎、浅原正基、相川春喜、高山秀夫ら共産主義者ないしシンパが入り、捕虜の中から植字工や印刷工も集められた。第一号には、スターリンの対日戦勝利を記念する九月二日の国民へのアピールが掲載された。しかし、「日本新聞」は当初、反発した将校らの配布妨害もあってあまり読まれず、多くの回想記が伝えるように、マホルカ(巻きタバコ)の巻き紙や大便用チリ紙になっていた。
 転機は一九四五ー四六年冬、大量の病者と死者を生んだ時期であった。兵士が飢えと衰弱の中で重労働に喘いでいたとき、将校が労働を免除され、それでいて給食は質量とも兵士以上であり、兵士を旧軍隊さながらに乱暴に扱っていることに対する不満が爆発したのである。45年11月コムソモリスク収容地区第一分所で高山昇(東京農大助教授)が、上官に旧軍式の「申告」ができず、「軍閥」を批判したという理由で将校たちに殴り殺される事件が起り、それが噂として広がっていたことも大きい(「日本新聞」報道は遅れて四七年四月八日)。
「日本新聞」四六年四月四日に、ホール地区「木村大隊将兵一同」の撤文が掲載された。スローガンは「旧関東軍兵士は即時反軍国的民主グループを結成せよ」「明朗なる収容所建設の為に民主的軍紀を確立せよ」「我々の隊伍に於ける軍国主義的分子との断固たる闘争を開始せよ」「祖国日本に於ける民主統一戦線運動を強力に支持せよ」であり、「新日本建設萬歳」で結ばれていた。四番目のスローガンは檄文作成に当たって相談した浅原の影響と思われるが、総じて反軍闘争は、帝国軍隊秩序を前提にして(ソ連側は労働効率のために利用)、将兵の平等(その端的な表現が階級章撤廃)など民主化を求めるところから出発したのである。
 まもなく「日本新聞」五月二五日に「日本新聞友の会」結成の呼びかけが掲載された。反軍闘争、民主運動を進める母体を輪読会という形で、分所ごとに組織しようということである。『日本新聞」は徐々に読まれるようになり、分所では壁新聞も作成、掲示されたが、その理由としては、抑留者が日本語に、また、政治的に歪められていたとはいえ祖国の情報に「飢えていた」という事情が大きい。多くの初等教育の機会にさえ恵まれなかった農村出身兵士にとっては、初めての識字教育の場であり、学びの機会であった(のちにカナ・サークル運動が生れた)。(P40,P41)
 また、P77には、抑留生活の実態を最初に報道したと思われるものとして、1947年8月3日毎日新聞1面・後藤富男手記が紹介されている。そのうち、読んでみます。

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