本の紹介-捕虜体験記 Ⅰ 歴史・総集篇2015年11月04日

 
捕虜体験記 Ⅰ 歴史・総集篇 ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会/編集 (1998.5)
 
 捕虜体験記全8冊のうちの第一巻。他の7冊は、シベリア抑留体験者の体験記であるが、本書はその総集編とも言うべきもので、シベリア抑留体験記等を元にして、シベリア抑留の全体像を明らかにするもの。
 シベリア抑留の本と言うと、これまでは、ソ連によって不当に苦労させられたとの内容の物がほとんどだった。実際は、そんなに単純ではい。抑留者の死亡の80%は初年に集中しているが、これは、単に寒さに慣れていなかったと言うだけではなく、抑留者の管理が日本将校に任されたため、日本の将校が兵士に食料を渡さないことによる栄養失調も死亡原因の一つである。また、将校への態度が悪かったために殴り殺した例なども知られている。抑留2年目になると、将校による管理はなくなったので、以後、死亡者は大きく減った。しかし、こんどは、共産主義に感化されたものによる管理になったため、報復による吊るしあげが横行した。
 以前は、このような抑留実態について、語られることは少なかったが、抑留帰還者の多くが高齢になったため、近年では、抑留実態が徐々に明らかにされている。本書は、このように事実を正確に書きとめる立場をとった初期の本に当たり、抑留の実態を冷静に把握するために、重要な本。
 
 抑留当初、日本軍捕虜は、それまでの日本軍の軍無規律に従って、日本軍将校が管理していた。この時期、日本軍将校は、日本兵を徹底的に弾圧し、食料の多くは将校が取り、兵を飢餓においこんでいた。体の弱った兵士に対しても容赦なく重労働を課し、ソ連側の歓心を得て、自分が早期帰還を果たせるように動いていた。シベリア抑留の死亡者の多くはこの時期に出ている。しかし、その後、兵士の間から日本軍将校の命令を聞かない動きが現れ、立場が逆転してゆく。
 本書では、このような実態が、体験記を元に詳細に示される(P168~P173など)。
 
 シベリア抑留者の帰還は1946年の「ソ連地区引揚げに関する米ソ協定」で毎月5万人と定められたが、実際に引き上げた人数はずっと少なかった。日本とソ連とでは互いに相手に原因があると主張していた。この件に就いて、本書では斎藤六郎の次の見解を紹介している。
 『公平に見て相関遅延の責任は日本政府にあった。温暖な舞鶴港を主体に考えれば冬も夏もなく平均して輸送が万事につけて都合はよかったかもしれない。しかし、ナホトカの冬期間は平均は零下30度に下がる。2万3万の帰還者を待機させる場所はどこにもなかった。この時期、日本の責任ある立場の者が、一度でもナホトカを視察していたら問題は別の角度で解決できたであろうに(斎藤:回想のシベリアP222)』(P308)

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