本の紹介-されど海 存亡のオホーツク2015年06月15日


土本典昭/著 『されど海 存亡のオホーツク』 影書房 (1995/08)

 1990年代になるとこれまで日本人の入域が厳しく規制されていた北方領土に、日本人ジャーナリスト・旅行者が立ちれるようになる。このため、1990年代前半には北方領土取材報告が多数出版された。これらの本では、北方領土の現実の姿の一端を知ることができる。ただし、取材は、日本への報道を目的としたものであるため、日本人に好まれるような取材が多い。これらの本は基本的には取材報告であるが、北方領土の歴史の解説も、まじめなものが多い。 
 本書は、映画監督・土本典昭による、日ロ合作映画の作成を目的とした、北方領土や沿海州地域の取材記。

 興味を持った記述があったので書きとめておく。
日ロ"勝手交流"
 その後、間もなく"ビザなし"交流を額面通りに受けとり、堂々と国境を越えた"事件"があった。
 朝日新聞通信部の小泉記者はこの"勝手交流"に確信犯としての行為を見ているようだ。
 事件の出だしは単純だった。色丹出身のSさんは当局に無断で色丹島に自分の持ち船を走らせた。
 三歳の時に島を出たSさんは墓参を通じて、色丹島のロシア人島民の有力者と知り合い、島で出来る事業を考えていた。だが、腎臓病の彼自身は定期的に人工透析に通う身で、墓参団やビザなし交流のスケジュールに合わせられない。そこで彼は息子に「あなたらといっしょに島にホテルを建てよう」とのメッセージを託して色丹島に行かせた。漁民感覚では色丹島は近い。色丹島側では何の咎めもなく漁船を帰した。根室に戻ってのち、道当局から摘発された。
 確信犯かどうか、それは行政の措置如何に掛かってくる。何の規則で罰せられるかだ。
 「Sさんが色丹島水域に漁をしに行ったのなら罰則・海面漁業調整規則違反が適用できる。だが、色丹島に知人に会いに行っただけだ。色丹島は本来"日本固有の領土"で外国ではない。その日本領土に行ったのだから"密出国"には該当しない」。
 Sさんがそこまで読んで、事を運んだのかどうかは問題でなくなる。これにどう裁きをつけるか。
 小泉記者は根室海上保安庁にも聞いた。「その海域を航行しただけではせいぜい"無通告航行"の規則無視で、軽犯罪程度にしかならない」。これは"くい違い行政"といえる。ロシア側に逮捕されれば外務省の対ロ折衝に移される。ここでは「日本は国境の線引きを本来認めていない」と身柄釈放手続きがとられる。密漁者のだ捕の場合はこれで処理し、釈放後、国内法で処置する。Sさんの所属漁協では"十日間操業停止"にするくらいが通例だった。このSさんの例は行政の盲点をついた前例のない事犯になったと小泉記者はいう。
(箭波光雄理事長がやめた理由)
それにしても、なぜ辞められたんですか?やはりヤクザ問題ですか?
「一言、日ロ島民対話集会でかれに発言させたことで議長である私は退かざるを得ない結果になりました。その人だって、暴力団かヤクザか知らんが、その前に元島民のひとりとして連盟の会員にもなっていた。私は彼がビザなし訪問団で向こうの島に行ったり、"交流会(懇親会)"に出ることは阻止したけれども、対話集会の中で、一言島のことについて訊きたいといったことについて私は許した。"島のコンブの利用の道"という誰でも考えることです。それが政争の具に供されて困ったことになった。それだけです。もう理事長は辞めたのですから何もいいません」。
 私の失礼な詮索はここで終わった。あとはいいたい放題の言葉が遊んだ。数言をとどめておこう。
(アイヌ)
元島民からアイヌを北方四島の先住民として語られたことはなかった。箭波光雄氏はテレビ番組のなかでそのことを問われたが"アイヌはすでに日本人になっている"とこたえ、まともな返答になっていなかったと記憶している。(P56)
(日本帰還に対する元島民の証言)
 二年たっても日本から何の連絡も来ない。食糧も送ってこない、これは困ったと思っていた頃に、ソ連から『日本に帰す、これは強制でないから残りたいものは残って良いが、しかし残るものはソ連の国籍を取れ』といわれたんです。仕方がない、とりあえず一旦は帰ろうということで、昭和二十二年の秋に、全員ソ連の船で樺太を経由して帰ってきました。(P73)

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