独立の英雄『安重根』 ― 2013年11月20日
伊藤博文を暗殺したことで英雄になった安重根の像をハルピンに建てる件で、日本政府が、なんだかウダウダ文句を言っています。
外国が、外国人の碑を建てても、日本には関係ないこと。歴史認識や、歴史上の人物の評価は、人や国によって異なることは当然。それが嫌ならば、日本政府は、韓国や中国と歴史認識を統一すればよい。
写真は、韓国切手。安重根の没後100年を記念して発行された。
日本のニュース番組などでは、1981年に発行された黄緑色の切手が紹介されることが多い。
ホームページ少し更新 ― 2013年07月06日
ホームページ少し更新
日本切手にみる日露・日ソ関係史(葉書を中心として)
の中のGHQの占領のページに、シベリア抑留の消息を連絡する葉書を掲載しました。
http://cccpcamera.photo-web.cc/Hi-Ho/Stamp/Japan/GHQ/Ghq.html
日本切手にみる日露・日ソ関係史(葉書を中心として)
の中のGHQの占領のページに、シベリア抑留の消息を連絡する葉書を掲載しました。
http://cccpcamera.photo-web.cc/Hi-Ho/Stamp/Japan/GHQ/Ghq.html
屈辱の日 ― 2013年04月27日
4月28日はサンフランシスコ条約が発効し、日本の占領統治が終了したので、記念式典が行われるようです。
1947年9月、昭和天皇・裕仁は、自分(あるいは自分の子孫)の保身のために、GHQに対して、沖縄は米軍の自由勝手にすることを求めました。沖縄を犠牲にしたことが、天皇制が維持されている唯一の要因ではないけれど、その後、沖縄は、米軍の自由勝手にさせられる運命になり、いまだにそれが継続している面があります。
なお、昭和天皇・裕仁の要望に対して、W.J.シーボルトは、以下のコメントをしている。
It will be noted that the Emperor of Japan hopes that the United States will continue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus, a hope which undoubtedly is largely based upon self-interest.
沖縄の運命は過酷だったけれど、本土も、安保条約により、米軍が、日本のあらゆる場所を、自由に使えるようになりました。これほど、主権が制限された国は、あまり無いのではないだろうか。
1960年、広範な反安保闘争を押し切る形で、岸内閣は、安保条約の強化をねらった新安保条約を締結しました。写真は、この時、発行された記念切手。日米修好100年を記念するとの建前ではあるが、実際には安保改定を記念するものだったため、発行には強い反対が起こり、写真のように、黒枠で囲み、反対の意思を表した封皮も作られました。日米修好条約は、典型的な不平等条約であり、改定に苦労した経緯があるのに、記念切手発行を強行するのも、当時の岸内閣の傲慢な態度です。
(1960年の安保改定は、日米同盟が強化され日本が米国の世界戦略に巻き込まれ易くなったとの考えと、これまでの不平等条約が、形式的にせよ、一部、双務的で平等な条約になったとの見解があります。)
ホームページ追記 ― 2013年04月07日
『日本切手にみる日露・日ソ関係史(葉書を中心として)』にいくつかの切手類を掲載しました。
・満州開拓団の民間人が差し出した「軍事郵便」を掲載した。開拓とは名ばかりで、実態は軍事占領・土地の強奪なんですよね。
http://cccpcamera.photo-web.cc/Hi-Ho/Stamp/Japan/Manchu/Manchu.html
・戦争末期の切手の例として「敵国降伏」切手3種を掲載した。
・戦争末期に使用された速達葉書を掲載した。
・シベリア抑留日本人が、早期帰還できるようにマッカーサーに宛てた、小学生の陳情葉書がある。マッカーサー宛陳情葉書を小学生に出させるように校長に依頼する葉書を掲載した。
http://cccpcamera.photo-web.cc/Hi-Ho/Stamp/Japan/GHQ/Ghq.html
・満州開拓団の民間人が差し出した「軍事郵便」を掲載した。開拓とは名ばかりで、実態は軍事占領・土地の強奪なんですよね。
http://cccpcamera.photo-web.cc/Hi-Ho/Stamp/Japan/Manchu/Manchu.html
・戦争末期の切手の例として「敵国降伏」切手3種を掲載した。
・戦争末期に使用された速達葉書を掲載した。
・シベリア抑留日本人が、早期帰還できるようにマッカーサーに宛てた、小学生の陳情葉書がある。マッカーサー宛陳情葉書を小学生に出させるように校長に依頼する葉書を掲載した。
http://cccpcamera.photo-web.cc/Hi-Ho/Stamp/Japan/GHQ/Ghq.html
6月18日は『絵葉書』記念日 ― 2012年06月18日
1902年6月18日、逓信省は万国郵便連合加盟25周年を記念して、初の官製絵葉書(5種類)を発行しました。写真はそのうちの一部です。絵葉書には、日本および周辺の鉄道路線・定期航路・海底電線が描かれています。この地図の択捉島のところには『千島』『KOURILES』と書かれています。明らかに、国後・択捉をKURIELESと認識していたことが分かります。(画像をクリックすると拡大します)。
日本は、サンフランシスコ条約で千島列島の領有を放棄しました。「サンフランシスコ条約正文は英・仏・西語で、放棄したのはクーリールアイランズであって、それはウルップ以北である」との説明がまことしやかになされたことがあります。このような言葉の言い換えによる目先のダマカシが通用するはずもなく、1980年代に村山・和田氏により完全に否定され、今では、あまり言う人もいなくなっています。
この絵葉書を見れば、日本政府の認識では、クーリールアイランズに国後・択捉が含まれていることが分かります。色丹島もクーリールアイランズに含まれているようですね。
111111 ― 2011年11月11日
本の紹介-千島国郵便局七0年の軌跡 ― 2011年08月25日
千島国郵便局七0年の軌跡 小山田恭一/編 2000年10月発行
千島の郵便局の解説書には、こんな本もあります。少数部数の出版のようで、一般に入手は困難かもしれない。国立国会図書館には蔵書があるので、興味ある人はそちらで閲覧ください。
千島の郵便局について、一般局や軍事局の沿革資料集のような感じの本です。でも、ちょっと、まとまりに欠けるところがあって、読みにくいかもしれない。
本の紹介-厳寒の地、北千島の郵便局物語 ― 2011年08月25日
厳寒の地、北千島の郵便局物語
日本の敗戦まで、千島列島は大日本帝国領だった。千島の北の島、占守島・幌筵島には、帝国陸軍が駐屯しており、従軍慰安所も開設されていた。占守島片岡・擂鉢や幌筵島柏原には、函館郵便局の分室も開設された。これらの郵便局は、後に、軍事郵便局になる。
本書は、幌筵島の郵便局員を勤めた坂本木八郎による、北千島郵便局の記録。本書は、もともと、私家版として出版されたが、2011年7月に文芸社より、出版された。写真は、私家版。
こんなマイナーな内容の本を読む人など、ほとんどいないだろうと思っていたが、一般に発売されるところを見ると、関心がある人も、ある程度いるのだろうか。郵便史・軍事郵便・北方史などに興味がある人には、一読の価値はあるだろう。
終戦記念日 ― 2011年08月15日
8月15日は終戦記念日。正式には「戦没者を追悼し平和を祈念する日」。
1945年8月15日、いわゆる玉音放送があり、日本国民は戦争の終結を知ったため、8月15日が日本では終戦記念日となったと説明される。もともと、8月15日は月遅れのお盆で、死者を追悼する日だったため、戦没者を追悼するにふさわしい日として日本に定着した。
1945年8月15日、いわゆる玉音放送があり、日本国民は戦争の終結を知ったため、8月15日が日本では終戦記念日となったと説明される。もともと、8月15日は月遅れのお盆で、死者を追悼する日だったため、戦没者を追悼するにふさわしい日として日本に定着した。
しかし、この日に戦争が終結したわけではない。
8月15日、天皇は日本軍に対して『各軍は別に命令する迄各々現任務を続行すへし(大陸命第千三百八十一号)』と戦争の続行を命令、翌日、マッカーサーより戦闘停止の要請があると『即時戦闘行動を停止すへし、但し停戦交渉成立に至る間敵の来攻に方りては止むを得さる自衛の為の戦闘行動は之を妨けす(大陸命第千三百八十二号)』と抵抗を命令、このため、特にソ連・中国にあっては、戦争はなおも継続した。
支那派遣軍以外の軍隊に対して、8月22日に8月25日以降の戦闘停止を指示したため、ソ連との戦争はおおむね8月下旬には終了したが、支那派遣軍の戦闘が終結するのは、さらに後のこととなった。
9月2日、大陸命特第一号により『敵対行為を直ちに終止し、武装を解除』を命令し、ここに日本軍の戦争は終わった。
8月15日、天皇は日本軍に対して『各軍は別に命令する迄各々現任務を続行すへし(大陸命第千三百八十一号)』と戦争の続行を命令、翌日、マッカーサーより戦闘停止の要請があると『即時戦闘行動を停止すへし、但し停戦交渉成立に至る間敵の来攻に方りては止むを得さる自衛の為の戦闘行動は之を妨けす(大陸命第千三百八十二号)』と抵抗を命令、このため、特にソ連・中国にあっては、戦争はなおも継続した。
支那派遣軍以外の軍隊に対して、8月22日に8月25日以降の戦闘停止を指示したため、ソ連との戦争はおおむね8月下旬には終了したが、支那派遣軍の戦闘が終結するのは、さらに後のこととなった。
9月2日、大陸命特第一号により『敵対行為を直ちに終止し、武装を解除』を命令し、ここに日本軍の戦争は終わった。
日本では、盂蘭盆会の関係で、8月15日を終戦の日としているが、諸外国では、9月2日・3日を終戦の日としている国が多い。
これは、1995年9月2日に、アメリカ合衆国で発行された、日本に対する勝利50周年を記念した切手。アメリカでは戦争終結の日は公式には9月2日です。
こちらは、1995年9月3日に、中国で発行された抗日戦争勝利50周年記念切手。中国では、戦争終結の日は公式には9月3日です。
ロシアでは、戦争終結の日は9月3日だったが、2010年に、9月2日に変更された。
台湾は戦争終結の日(光復節)は10月25日であるため、1995年10月24日に、戦勝50周年を記念する記念切手が発行された。