沖縄旅行(5) 尖閣問題を考える2013年12月20日

 那覇市の国道58号線あたりは、かつては海中で、那覇市久米・松山は、陸地と離れた浮島になっていた。明国から冊封使が来ると、浮島に上陸し、浅い海を渡って首里へと向かっていたが、1451年に、浮嶋と首里を結ぶ道路が建設された。その後、江戸時代、戦前・戦後にかけて、埋め立てが進み、現在の形となっている。
 首里城は海からだいぶ遠い内陸にあるが、もともとは、そういうわけではなかった。
 戦災で焼失した首里城は、1992年に再建された。
 
 
  
 14世紀末、明の永楽帝が派遣した冊封使により、琉球王は冊封を受け、形式的に明の属国となる。これ以降、第一尚氏・第二尚氏時代と、明・清の冊封を受けている。冊封は、王が変わるたびに受ける。  
  
 首里城の守礼門。「守礼」とは、中国に対して、臣下としての礼を守っているとの意味。守礼門は1958年に再建されている。
  
  
 首里城内に、当時の冊封の様子がジオラマで再現されている。琉球王は中国の役人に対して、ずいぶん、へりくだった態度だ。
  
  
 琉球は中国に、毎年・あるいは数年に一度、朝貢、すなわち貢物をしているが、それ以上に礼物をもらうので、これは、君主・臣下の関係を利用した貿易だった。中国は、琉球に対して、朝貢に必要な貿易船を琉球に贈与しているが、それだけではなく、航海などをつかさどる技術者・学者を派遣した。この人たちは、那覇市久米村に居住したため、久米36姓と言われた。実際に、36の姓があったわけではなくて、36が縁起の良い数だったため、このように言われたのだろう。これらの人たちは、おもに、福州の出身だった。  
 那覇市久米には、福州との歴史的関係を記念して造られた、福州園がある。中国式の庭園です。
  

 福州園の道路を挟んで反対側の松山公園には、久米村発祥の地碑が建てられている。ラーメン丼のようにもみえるが、琉球・中国間の航海船を模ったとのことだ。
 蔡・毛・王・林・金・鄭・梁・陳・程・阮・魏・孫・紅・曾・楊・周・李の17姓が書かれている。 
       
 朝貢船の航海や、冊封使のもてなしは、久米村の人たちが担っていた。下の写真は、那覇市東町郵便局隣の医師会ビル前にある、天使館跡の看板。冊封使が来琉すると、この場所に宿泊した。
  
  
  
  
 尖閣問題に関連して、日本では、次のように言われることがある。
 『朝貢船の方が、冊封船よりも圧倒的に回数が多く、琉球の出した船の方が多いので、琉球の方が、尖閣付近の航路を良く知っていた。』
 この見解が、100%誤りとは言えないが、限りなく嘘に近い。
 琉球発の航海を主導したのは、久米36姓の人たちなので、琉球人が航路を知っていたと言う訳ではない。久米36姓の人たちは、琉球人なのか、中国人なのか。彼らは、中国各地や東南アジアの華僑の人々と同様に、渡来人の心の拠り所として中国・山東省済寧市曲阜から孔子の絵像を持ち帰り、1610年から釈奠の儀礼など行うようになり、今でも、久米36姓の末裔が孔子廟を守り祭礼を行っている。
  
  
 現在は、彼等は、すべて日本国籍であり、日清戦争以降は、日本に同化している。
  
  
 1879年、明治政府は松田道之に武装警官らを随行させ、武力的威圧により、廃藩置県を強行し、琉球王統は終了した。明治政府の琉球処分に反対して、清国に琉球救済のために、軍隊派遣などを求め、清国に亡命した人たちがいた。これを脱清人という。脱清人の多くは久米36姓の人たちである。
 1880年、日本政府は、沖縄本島を日本領とし先島諸島を清領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案し、清も一度は応じ仮調印した。久米村出身の林世功は、清国の態度に、抗議の自殺をした。脱清人の抗議活動のため、清国は沖縄分割案に対して、本調印をしないまま、日清戦争に突入となった。下関条約で、台湾が日本に割譲されるに及び、琉球全島や尖閣は日本の領土となった。

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