北方領土問題啓発施設-シマのかけはし ― 2008年10月13日
あきれた「固有の領土」 ― 2008年10月13日
野付半島のネイチャーセンター横には「野付半島」と表示された大きな標柱が建っています。写真は、その台座部分に刻まれた文言。
『野付半島は、…寛政十一年(1799年)に駅家が置かれ、国後島への渡海の拠点となる。…日本の固有の領土たる国後島は、ここから、わずか十六キロメートルの位置にある。…』
1799年と言ったら、あと1~2年で19世紀ではないか。こんなに遅くならないと、まともに進出できなかった地を「固有の領土」とは、あきれます。日本人が千島に進出するよりもずっと古い時代、1000年以上前には、アムール川下流域・樺太・千島・北海道東部にオホーツク文化が起こっているので、こういう人たちの子孫が「自分達の固有の領土」と主張するなら理解できます。
もっとあきれた「固有の領土」 ― 2008年10月14日
納沙布岬 ― 2008年10月15日
納沙布岬は日本最東端の地です(南鳥島を除く)。ここから東3.4kmのところには貝殻島があって、現在ロシアが実効支配しています。1945年、1948年にマッカーサー・ラインが設定され、事実上、日本の国境は、納沙布岬と貝殻島の中間になりました。マッカーサー・ラインはサンフランシスコ条約発効3日前に廃止されましたが、『中間ライン』と名称を変更して、事実上の国境となっています。中間ラインを超えて、漁業をすることは、原則として禁止され、破った場合は、日本の法により処罰されます。ただし、コンブ漁など一部の漁は、ロシアの許可を得て、ロシアに入漁料を支払った漁船についてのみ認められます。
「日本国最東端の地」とボードに書いて持ってみました。ボードの白、ジャケットの水色、ポロシャツの赤が、ロシア国旗の色になっています。
クナシリ・メナシの戦い 横死七十一人之墓 ― 2008年10月18日
写真は、納沙布岬に立つ、クナシリ・メナシの戦いで死亡した日本人71人の墓標。
碑の裏側には文字が刻まれていますが、苔が生していて、読める状態では有りませんでした。「クナシリ・メナシの戦い(根室市博物館開設準備室 根室歴史研究会)」によると、現代語訳にすると 、次のようになります。
『寛政元年五月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍や漁民を殺した。殺された人数は合計七十一人で、その名前を書いた記録は 役所にある。あわせて供養し、石を建てる。』
碑文をそのまま信じると、アイヌは悪い奴だったような気がしますが、実際は全く逆で、当時、日本人の横暴でアイヌは生存の危機に直面していました。日本人が徹底的に弾圧して、その結果としての蜂起なのだけれど、蜂起の被害に遭うとそれだけを取り上げて、相手が凶悪であるようにいい連ねる。
今、「日本人の誇り」などの言葉で、日本人が被害にあったことだけを強調して、周辺諸民族に対する日本人の優位性を主張する動きがあります。昔と比べて、進歩してないですね。
碑の隣に説明看板が立てられ、そこには、以下のように、史実を中立的に説明しています。
『寛政元(一七八九)年五月、国後島とメナシ(現在の標津町付近)のアイヌの人々が、当時この地域の場所請負人であった飛騨屋久兵衛の丸配人らに脅されて、僅かな報酬で労働を強いられ、やむなく蜂起し和人七十一人を殺害した。
松前藩は、ノッカマップ(根室半島オホーツク海側)にアイヌの人々を集め蜂起の指導者三十七人を処刑した。このできごとは、"寛政クナシリ・メナシアイヌ蜂起"と称されている。(以下省略)』
クナシリ・メナシの戦い ノッカマップ・イチャルパ ― 2008年10月18日
クナシリ・メナシの戦いで、松前藩は蜂起した31人のアイヌを処刑しました。現在、処刑場所となったノッカマップで毎年9月の終わりごろにアイヌの人達による慰霊祭(ノッカマップ・イチャルパ)が行われています。
ノッカマップ・イチャルパが行われている場所が知りたかったのですが、探してもどこだかわかりませんでした。
写真は、ノッカマップのチャシ跡(アイヌの遺跡)をものすごく遠くから撮ったもの。途中の道が、笹に覆われて、近づくことができませんでした。アイヌの遺跡は、誰も見向きもしないようです。
でも、それにしても、道の笹ぐらい刈ればよいのに。自分が地元民ならば、そのぐらいのことをしてもよいと思いますが。根室には、ボランティアに参加する人がいないのかな。皆、年寄りで、草刈どころではないのかな。
お願い:
ノッカマップ・イチャルパはどこで行われるのか、ご存知の方、教えていただけませんか。また、ノツカマフ1号・2号チャシ跡に行く道は、いつも笹に覆われているのでしょうか。観光シーズン終了のときだったから、笹に覆われてしまったのでしょうか。
クナシリ・メナシの戦い ノッカマップ ― 2008年10月19日
貝殻島灯台 ― 2008年10月20日
貝殻島灯台 (2) ― 2008年10月21日
お詫びとBlog記事の訂正 ― 2008年10月21日
納沙布岬に建つ返還要求の碑の中で、一番立派なのは「日本青年社」が建てたものです。
10月10日のBlog記事で、日本青年社の説明として、日本青年社HPの説明のみを記載しました。
この碑を建てた、日本青年社は、暴力団住吉連合(現:住吉会)本部長、住吉一家小林会会長の小林楠扶が作った右翼団体で、指定暴力団住吉会の西口茂男総裁が最高顧問を務めています。このような、団体の一方的宣伝文をコメント無しに掲載することは、不要な誤解を与えることでした。
軽率な記述をお詫びし、日本青年社は、指定暴力団住吉会傘下の右翼団体であること、また、この碑に刻まれている文字は、暴力団住吉一家の小林楠扶の筆によるものであることを指摘し、記事の訂正とさせていただきます。
また、北方領土問題解説のホームページにも、同様な記述をしました。既に訂正しています。不適切な記述をお詫びします。
10月10日のBlog記事で、日本青年社の説明として、日本青年社HPの説明のみを記載しました。
この碑を建てた、日本青年社は、暴力団住吉連合(現:住吉会)本部長、住吉一家小林会会長の小林楠扶が作った右翼団体で、指定暴力団住吉会の西口茂男総裁が最高顧問を務めています。このような、団体の一方的宣伝文をコメント無しに掲載することは、不要な誤解を与えることでした。
軽率な記述をお詫びし、日本青年社は、指定暴力団住吉会傘下の右翼団体であること、また、この碑に刻まれている文字は、暴力団住吉一家の小林楠扶の筆によるものであることを指摘し、記事の訂正とさせていただきます。
また、北方領土問題解説のホームページにも、同様な記述をしました。既に訂正しています。不適切な記述をお詫びします。